日誌

民俗行事「御田祭」4

3 「御田祭」の民族的背景
 「田代神社」に関わる最も古い文献は「霧島神社縁記」であろう。これは天正八年庚辰(かのえたつ)三月に「かすの大隅(粕野の大隅守)」が筆記したものを明治十六年癸未(みずのとひつじ)(一八八三年)正月、峰区の長友福之助が書写したものである。
 いま、今その概要を記せば、神武天皇の第六の旺時が肥後の国合志郡釈迦院嶽にお立ちに也恵方を探り、さの嶽(霧島狭野)に飛ばされたけれども辰巳(東南)の方角となり、田代の御嶽(日陰山)に飛来なさった。年号は、長元五年壬申(みずのえさる)(一〇三二年)のことであった。この飛来の「光り物」を神仏との知らない時の粕野(わかみや)の祝子は、田代岩口というところに逗留中であった。
 以下「光り物」と人々の関わりを記述するが、注目すべきことは、権現御宮を建立し、種々神事を執行するようになっているが、この「縁記」中には、「御田祭」に関するものは見いだせない。
  さて、土地の伝承によれば田代神社創建についての御神体発見の話がある。時代は、平安中期の頃、田代粕野(若宮)に橋本大隅守なる人物が地区を治めており、折しも不思議なことがあった。大隅守の飼い犬が日陰山に向かって七日七夜吠え続けたので、怪しみその方角を注視していると、山頂に光り輝く不思議な光景をみとめた。大隅守はこの現象を確認するために地域の山の状況に精通した猟師の矢元、桑津長之十を先案内人に息子2人を同伴し,日陰山の山頂に達した。そのうち息子の一人が神がかりして棒で地面をたたいた。そこから現れたのがイサギ(鋤先すきさき)であり、それには「霧島六所大権現(宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の周辺にある以下の6つの神社の総称)」の文字があったという。