西郷中学校
日誌
民俗行事「御田祭」3
西郷村は、東は東郷町(現日向市),西は椎葉村、南は南郷村(現美郷町)、北は北郷村(現美郷町)諸塚村とに境を接し、田代地区はその中心地であり,周囲に高山をもつ盆地状を形成している。「日向地誌」では,その地勢について「山脈蜿蜒(えんえん:うねうねとどこまでも続くさま)西椎葉山より来たり、岡巒(こうらん:丘陵、小山)交互の西面を繞(めぐ)り美美川其の中央を貫流す。高千穂諸村に比すれば山勢(さんせい:山の姿。山のようす)漸く(ようやく)平穏平田漸く多く屋宇(おくう:家屋)も亦(また)濶(かつ:)広々としている)へり 運指運ならすと雖(いえど)も美美川その中にするを以て水運の便あり 薪芻( しんずう :薪とまぐさ。まぐさとはわらや草を束ねた牛馬の飼料)も乏しからす貧民少なし」と記述している。さらに同書では、地味(土地の状態)について「其田三四分真土(まつち: 耕作に適した良質の土壌)四分ホヤ土<黒、赤>其餘(あまり)は砂礫土(されきど)雜(まじ)る其質忠の状は八分赤黒ホヤ土二分真土其質上の下は水利(すいり:田畑の灌漑(かんがい)や飲用・消火などに水を利用すること)は六分の便なり四分ならす水害少なし」と記すが近隣の諸村の大部分は赤黒のホヤ土であり、どちらかと言えば田代地区は、水田耕作に適している。
田地のうち、税地は「百九十一町六段5畝(せ)二十一歩」無税地はシャチの「四町八段三畝」とあり、民業については「闔村(こうそん:全村、村中)皆農を業とす云々」とある。
さかのぼって、有馬氏時代の記録である「国乗遺聞」によれば、その換算単位に格差があったとしても、例えば田代村は隣接諸村に比べて群を抜いた石高を示している。
△ 田代村 千九百十九石五斗
△ 神門村 百八十三石九斗九升
△ 中渡川村 十石
△ 上渡川村 八十五石
△ 鬼神野村 百八石2升
△ 水清谷村 百三十五石八斗3升
△ 山三箇村 六石9斗9升
△ 小原村 四十三石四斗
△ 立石村 十九石六斗5升
△ 宇納間村 三百八十四石七斗四升三合
田代村のそれは、臼杵郡内、恒富村、南市村、北市村、岡富村につぐ数値であり、参観入郷地帯には千石を超えるところは皆無である。
ところで、田代地区に「御田祭」がいつの頃から執行されるようになったのかは分明(明らかにすること)しがたいが 少なくとも先に示したような背景があって田代神社を中心とした農神事として定着したものであろう。
田地のうち、税地は「百九十一町六段5畝(せ)二十一歩」無税地はシャチの「四町八段三畝」とあり、民業については「闔村(こうそん:全村、村中)皆農を業とす云々」とある。
さかのぼって、有馬氏時代の記録である「国乗遺聞」によれば、その換算単位に格差があったとしても、例えば田代村は隣接諸村に比べて群を抜いた石高を示している。
△ 田代村 千九百十九石五斗
△ 神門村 百八十三石九斗九升
△ 中渡川村 十石
△ 上渡川村 八十五石
△ 鬼神野村 百八石2升
△ 水清谷村 百三十五石八斗3升
△ 山三箇村 六石9斗9升
△ 小原村 四十三石四斗
△ 立石村 十九石六斗5升
△ 宇納間村 三百八十四石七斗四升三合
田代村のそれは、臼杵郡内、恒富村、南市村、北市村、岡富村につぐ数値であり、参観入郷地帯には千石を超えるところは皆無である。
ところで、田代地区に「御田祭」がいつの頃から執行されるようになったのかは分明(明らかにすること)しがたいが 少なくとも先に示したような背景があって田代神社を中心とした農神事として定着したものであろう。
学校行事
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