都城北飛行場(野々美谷町)って知っていますか?(3年生)
1月23日(火)
丸野小学校校区には「都城北飛行場跡」があります。
飛行場跡とは、空を飛ぶ飛行機が離着陸していた場所のこと 「えっ、そんな場所ないよ・・・」
丸野小学校の校区内には、そんな場所は、「現在」は、見当たりません。
もちろん「跡(あと)」ということなので、今はないのかな・・
見学を始めた3年生の児童もがいっぱい頭の中を巡っていたと思います。
都城北飛行場は、昭和19年~20年(今から約80年前)にかけて、旧日本陸軍が軍用の飛行場としてつくりました。昭和19年~20年は、まさに、日本は外国との戦争のまっただ中。
都城北飛行場建設のために、本地域住民はもちろん高原町や小林からも動員され、耕地作業を行ったとのこと。
そして肝心の滑走路は、東北東より西南方にも幅160㍍、延長1600㍍の大きさでした。
さらに、敵の攻撃から、飛行機をかくす場所も林の中につくられていました。
そして、都城北飛行場は、「特別攻撃隊(特攻隊)」のための飛行場でした。
昭和20(1945)年7月に、岡山から都城北飛行場にやってきたある特攻隊員の回想録によると、
その方は、昭和20(1945)年の2月に特攻隊員になられたそうです。その後、5月に埼玉県の熊谷飛行場において、飛行機(機体は暗緑色にぬられ、後ろの座席にはドラム缶が搭載されていた改造機)が与えられ、その後、その飛行機で岡山に移ったとのこと。
岡山では、同じ飛行機で、海上での実戦訓練(超低空による水平飛行や漁船を敵と見立てた体当たりの訓練)を行い、その後、都城北飛行場にやってきたそうです。
都城北飛行場では、特攻隊員たちは「三角兵舎」に寝泊まりをしていたとのこと。(現在は鹿児島県の知覧に同じような兵舎が復元されています。)
8月になると、敵の飛行機が都城北飛行場の上空をよく飛ぶようになり、飛行訓練もなかなか思うようにできなくなったとのこと。来る日も来る日も「三角兵舎」で過ごし、重苦しい空気と、間近に迫る死への恐怖も感じながら、遺書を何度も読み返したり、身の回りの私物の整理をするだけの日が続いたそうです。
こんな身近な場所に、今から約80年前に、命の大切さを強く感じながら、それでも特攻隊としての強い責任を負い、毎日過ごしていた人たちがいたことを忘れてはなりませんね。
かけがえのない命は尊く、命の大切さは人としての生き方そのもの・・・ですから。
3年生のみなさんは、この活動を通して必ず何か「感じ、考え」てくれたことだと思います。
みなさんは、先人たちに、どんな言葉をかけますか