本日の給食は非常時に備えて備蓄していたカレーを利用したメニューでした。今年は、ひなあられやデザートもつけていただきました。
読書感想文の続きを紹介します。
「自分にとっての幸せ」 3年 久木田 花澄さん
黒髪の乙女とは、女性である私でも心魅かれるような唯一無二の女の子である。好奇心が強く、どんな時も前向きであり、勇気があり、とても幸せ者の女の子だと思う。幸せ者の彼女を見ていると、こちらにまで幸せが降りてくるようだ。
全然関係のない討論会に参加し、「パン食連合ビスコ派」をかかげデモをおこすのも、好奇心と自由気ままなところと一生懸命なところを兼ね備えた彼女らしさの表れであり、とても素敵なところである。私もこんなふうに生きられたらなと憧れをもった。
私がこの本の中で一番好きなところは、「若人よ、自分にとっての幸せとは何か。それを問うことこそが前向きな悩み方だ。そして、それを常に問い続けるのさえ忘れなければ、人生は有意義なものになる。」というセリフだ。つまり、幸せとは何か常に求めて生きよということだと思う。
黒髪の乙女は、幸せに生きる方法を無意識のうちに、身につけて生きていると思った。例えば、古本市という祭りで、本との出会いの意味を考える彼女。本当は、本当の出会いを運命だと感じているが、裏には科学的な原因があるかもしれないと考えてしまう。しかし、彼女は運命を信じる。たとえ科学的な原因があったとしても、彼女は無理をせず自分が幸せだと思う方に考えを向けられるのだ、 自分にはそんな生き方ができているだろうか。今でも彼女が輝かしく、まぶしく見えるときがあるが、数年間の私はもしかしたら、彼女と真逆の性格だったかもしれない。
中学校に入ったばかりの私は、人前であまり笑わず、何でも後ろ向きに考える人だった。もしかしたら、昔の自分はこの物語に登場する彼女だけでなく、前向きな人とはかけ離れている人だったかもしれない。
私が人前で自然に笑うようになったのは、周りにいたクラスメートや先生方、部活動のみんながいてくれたおかげだと思う。まわりのみんなはいつも優しく、いつも笑っていた。とくに、私が困っている時に優しく笑って手をさしのべていくれた。この時に味わったうれしさは何ものにも変えられない。うれしさを重ねることにより、自分もいつのまにか笑顔になり、今は物事を前向きに考えるようになった。
このことは、彼女とも同じだと思った。彼女の周りにいる人たちも優しく温かみのある人たちばかりだ。「幸せになるために生きろ」と言ってくれる人、彼女といっしょに夜の街を歩いてくれる人、何より彼女のことを愛してやまない先輩。彼女のまわりには、彼女を幸せにしてくれる人々がたくさんいる。そして、私のまわりにもそんな人がたくさんいる。それに気付けただけでも、私はとても幸せ者だ。
”自分にとっての幸せとは何か”ということを考えると、まわりに転がっている幸せにどう気付けるかだと思う。彼女のように、いつも自分が幸せだと思う方に体を向けられているかはわからない。無理して辛い方を選んで失敗することも時折ある。しかし、まわりに転がっている小さな幸せにも気付けるようになった今、数年前、人前で笑わなかった自分に比べたら、自分の幸福度はずいぶん違うだろう。
最近は、よく「自分にとっての幸せとは何か」を考えるようになった。そして、それを考え続けることは本当に大事な事だと思う。幸せに生きるということとがんばるということについて考えるようになって、以前は、がんばるということは無理することかと思っていた。しかし、がんばらないのも後で後悔することになる。それでは幸せにつながらない。幸せにつなげるには嫌にならずにがんばるということだと思う。
そんなときに、もう一度彼女の行動を振り返ってみた。彼女が学園祭で劇の主演をする時、彼女は自信が持てず、主演を断りそうになるが、引き受ける。この場面で、彼女の勇気も見えるが、劇に出ることを楽しもうとしているように見えた。彼女のように、楽しみながらがんばれば、幸せにつながるのではないか。やる気や好奇心などがあれば無理をせずにがんばれると勇気をもらった。
これからも「自分にとっての幸せとは何か」について自分に問い続けてみようと思う。そうすれば、きっと辛いときも前を見続けられるような気がする。そして、まわりに転がっている幸せや自分のまわりにみんながいることの幸せを忘れないようにしたい。