日誌

岩熊いぜきを調べよう~4年社会科~

「水郷延岡」と言われるぐらい、4本の川に囲まれた延岡は大変水に恵まれている土地です。なのに、なぜか昔は田を作ることができず、苦労したようでした。江戸時代の昔、延岡は田が少なく、ほとんどが畑で、特に農家の人は困っていたようです。

延岡ガイド・ボランティアの会の古川さん、久木野さん、久我さん、田口さん、加藤さんを4年生教室にお招きして、「岩熊いぜき」についての講話をしていただきました。

まずは、最初の謎、「なぜ昔は田を作ることができなかったのか?」については、川の写真を使って、分かりやすく説明していただきました。延岡の川をよく見ると、水面が地面よりもずいぶん下側にあるのが分かります。これでは、田に簡単に水を引くことができないのです。

次に、「なぜ岩熊にいぜきをつくったのか?」について、遠く離れてはいますが、岩熊の場所まで行くと、ずいぶん川が高い位置にあることになり、用水路を作ることができるのです。そこの川の水を緩やかにして、水を取り入れることができるようにするために、いぜきをつくったようです。このことを考え、中心になって事業を進めたのが、藤江監物(ふじえけんもつ)と江尻喜多右衛門(えじりきたえもん)だったようです。

田を作りたい出北の地域までは、直線距離で8㎞、家や山などをよけると12㎞もあり、かなり遠いのです。

さて、「用水路はどのようにしてつくられたのか?」については、ショベルカーやブルドーザーなどの重機がなかった時代ですので、すべて手作業で行われました。鍬やもっこ、かなづちや石のみなど、小さな道具しかありませんので、大変な思いをしながら用水路になるところの土を掘り出したり、岩をくりぬいたりしながら、11年もの歳月をかけてできあがったようです。用水路の底をどれぐらい傾けるのかを調べるために、「水盛台(みずもりだい)」という道具を使ったことを実験を通してガイド・ボランティアの方々が説明してくださいました。

この岩熊いぜきは、当時は木や石でできていましたが、昭和の初期にセメントにしたりしながら、約300年を過ぎた現代でも利用されているのです。

私たちは、これからお米をいただくときに、この先人の努力を感じ、感謝しながらいただくことにしましょう。

今回の講話で、岩熊いぜきのことがとってもよく分かりました。ガイド・ボランティアの会のみなさんありがとうございました。