本庄古墳群
 
本庄の高台にある古墳群は昔から「本庄四十八塚」と呼ばれ、東は宮王丸から西は須志田にかけて、4~6世紀、古墳時代の前方後円墳17基、円墳37基、横穴墓2基、地下式横穴墓1基の57基が史跡として国指定を受けています。
 
 
国指定本庄古墳群第29号墳(通称:下長塚)
 
 
 
 国指定本庄古墳群第46号墳(横穴墓)
 
 国指定本庄古墳群第48号墳
 
 
 
 
 
 
本庄南用水路
本庄南用水路は、明治14(1881)年から明治17(1884)年にかけて作られた灌漑用の用水路で、幅約3.0メートル、深さ約2.3メートルの用水路が10.290キロに渡って掘られました。途中、6か所に掘られたトンネルの長さは合計2.4キロ以上ありました。
この用水路のおかげでうるおった田畑は約276ヘクタール、工事費の総額は当時の約4万2千円、現在の価格で約6億7千万円以上になります。
私財をなげうち、5年の歳月をかけてこの事業をなし遂げたのは、地元本庄の井上亀太郎、岩切為助、宮永八百治、吉野庄三郎、巣山徳次、長友精次郎、巣山与三郎、岩切栄之助の8名です。
 
  
 本庄南用水路紀功の碑(犬熊)                       指塚(犬熊)
 
 
 




本庄南用水路紀功の碑は、北白川宮能久親王の篆額、秋月種樹公の撰文、碑裏には県知事永峯弥吉氏、本庄の儒士高妻五雲翁の書が刻まれています。
指塚は、この難工事に大切な指を切って、決意の固さを示した宮永八百治の指を葬った塚碑です。

 

キャビネット

本庄南用水路をつくった人たち

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