西郷中学校
日誌
2019年9月の記事一覧
民俗行事「御田祭」4
3 「御田祭」の民族的背景
「田代神社」に関わる最も古い文献は「霧島神社縁記」であろう。これは天正八年庚辰(かのえたつ)三月に「かすの大隅(粕野の大隅守)」が筆記したものを明治十六年癸未(みずのとひつじ)(一八八三年)正月、峰区の長友福之助が書写したものである。
いま、今その概要を記せば、神武天皇の第六の旺時が肥後の国合志郡釈迦院嶽にお立ちに也恵方を探り、さの嶽(霧島狭野)に飛ばされたけれども辰巳(東南)の方角となり、田代の御嶽(日陰山)に飛来なさった。年号は、長元五年壬申(みずのえさる)(一〇三二年)のことであった。この飛来の「光り物」を神仏との知らない時の粕野(わかみや)の祝子は、田代岩口というところに逗留中であった。
以下「光り物」と人々の関わりを記述するが、注目すべきことは、権現御宮を建立し、種々神事を執行するようになっているが、この「縁記」中には、「御田祭」に関するものは見いだせない。
さて、土地の伝承によれば田代神社創建についての御神体発見の話がある。時代は、平安中期の頃、田代粕野(若宮)に橋本大隅守なる人物が地区を治めており、折しも不思議なことがあった。大隅守の飼い犬が日陰山に向かって七日七夜吠え続けたので、怪しみその方角を注視していると、山頂に光り輝く不思議な光景をみとめた。大隅守はこの現象を確認するために地域の山の状況に精通した猟師の矢元、桑津長之十を先案内人に息子2人を同伴し,日陰山の山頂に達した。そのうち息子の一人が神がかりして棒で地面をたたいた。そこから現れたのがイサギ(鋤先すきさき)であり、それには「霧島六所大権現(宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の周辺にある以下の6つの神社の総称)」の文字があったという。
「田代神社」に関わる最も古い文献は「霧島神社縁記」であろう。これは天正八年庚辰(かのえたつ)三月に「かすの大隅(粕野の大隅守)」が筆記したものを明治十六年癸未(みずのとひつじ)(一八八三年)正月、峰区の長友福之助が書写したものである。
いま、今その概要を記せば、神武天皇の第六の旺時が肥後の国合志郡釈迦院嶽にお立ちに也恵方を探り、さの嶽(霧島狭野)に飛ばされたけれども辰巳(東南)の方角となり、田代の御嶽(日陰山)に飛来なさった。年号は、長元五年壬申(みずのえさる)(一〇三二年)のことであった。この飛来の「光り物」を神仏との知らない時の粕野(わかみや)の祝子は、田代岩口というところに逗留中であった。
以下「光り物」と人々の関わりを記述するが、注目すべきことは、権現御宮を建立し、種々神事を執行するようになっているが、この「縁記」中には、「御田祭」に関するものは見いだせない。
さて、土地の伝承によれば田代神社創建についての御神体発見の話がある。時代は、平安中期の頃、田代粕野(若宮)に橋本大隅守なる人物が地区を治めており、折しも不思議なことがあった。大隅守の飼い犬が日陰山に向かって七日七夜吠え続けたので、怪しみその方角を注視していると、山頂に光り輝く不思議な光景をみとめた。大隅守はこの現象を確認するために地域の山の状況に精通した猟師の矢元、桑津長之十を先案内人に息子2人を同伴し,日陰山の山頂に達した。そのうち息子の一人が神がかりして棒で地面をたたいた。そこから現れたのがイサギ(鋤先すきさき)であり、それには「霧島六所大権現(宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の周辺にある以下の6つの神社の総称)」の文字があったという。
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民俗行事「御田祭」3
西郷村は、東は東郷町(現日向市),西は椎葉村、南は南郷村(現美郷町)、北は北郷村(現美郷町)諸塚村とに境を接し、田代地区はその中心地であり,周囲に高山をもつ盆地状を形成している。「日向地誌」では,その地勢について「山脈蜿蜒(えんえん:うねうねとどこまでも続くさま)西椎葉山より来たり、岡巒(こうらん:丘陵、小山)交互の西面を繞(めぐ)り美美川其の中央を貫流す。高千穂諸村に比すれば山勢(さんせい:山の姿。山のようす)漸く(ようやく)平穏平田漸く多く屋宇(おくう:家屋)も亦(また)濶(かつ:)広々としている)へり 運指運ならすと雖(いえど)も美美川その中にするを以て水運の便あり 薪芻( しんずう :薪とまぐさ。まぐさとはわらや草を束ねた牛馬の飼料)も乏しからす貧民少なし」と記述している。さらに同書では、地味(土地の状態)について「其田三四分真土(まつち: 耕作に適した良質の土壌)四分ホヤ土<黒、赤>其餘(あまり)は砂礫土(されきど)雜(まじ)る其質忠の状は八分赤黒ホヤ土二分真土其質上の下は水利(すいり:田畑の灌漑(かんがい)や飲用・消火などに水を利用すること)は六分の便なり四分ならす水害少なし」と記すが近隣の諸村の大部分は赤黒のホヤ土であり、どちらかと言えば田代地区は、水田耕作に適している。
田地のうち、税地は「百九十一町六段5畝(せ)二十一歩」無税地はシャチの「四町八段三畝」とあり、民業については「闔村(こうそん:全村、村中)皆農を業とす云々」とある。
さかのぼって、有馬氏時代の記録である「国乗遺聞」によれば、その換算単位に格差があったとしても、例えば田代村は隣接諸村に比べて群を抜いた石高を示している。
△ 田代村 千九百十九石五斗
△ 神門村 百八十三石九斗九升
△ 中渡川村 十石
△ 上渡川村 八十五石
△ 鬼神野村 百八石2升
△ 水清谷村 百三十五石八斗3升
△ 山三箇村 六石9斗9升
△ 小原村 四十三石四斗
△ 立石村 十九石六斗5升
△ 宇納間村 三百八十四石七斗四升三合
田代村のそれは、臼杵郡内、恒富村、南市村、北市村、岡富村につぐ数値であり、参観入郷地帯には千石を超えるところは皆無である。
ところで、田代地区に「御田祭」がいつの頃から執行されるようになったのかは分明(明らかにすること)しがたいが 少なくとも先に示したような背景があって田代神社を中心とした農神事として定着したものであろう。
田地のうち、税地は「百九十一町六段5畝(せ)二十一歩」無税地はシャチの「四町八段三畝」とあり、民業については「闔村(こうそん:全村、村中)皆農を業とす云々」とある。
さかのぼって、有馬氏時代の記録である「国乗遺聞」によれば、その換算単位に格差があったとしても、例えば田代村は隣接諸村に比べて群を抜いた石高を示している。
△ 田代村 千九百十九石五斗
△ 神門村 百八十三石九斗九升
△ 中渡川村 十石
△ 上渡川村 八十五石
△ 鬼神野村 百八石2升
△ 水清谷村 百三十五石八斗3升
△ 山三箇村 六石9斗9升
△ 小原村 四十三石四斗
△ 立石村 十九石六斗5升
△ 宇納間村 三百八十四石七斗四升三合
田代村のそれは、臼杵郡内、恒富村、南市村、北市村、岡富村につぐ数値であり、参観入郷地帯には千石を超えるところは皆無である。
ところで、田代地区に「御田祭」がいつの頃から執行されるようになったのかは分明(明らかにすること)しがたいが 少なくとも先に示したような背景があって田代神社を中心とした農神事として定着したものであろう。
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民俗行事「御田祭」2
<御田祭とその周辺>
所在地「田代」の地名はどのような意味合いをもって命名されたものであろうか。田代とは、水田適地の義(意味)であり、墾地(切り拓けば農地になる土地)と同義(同じ意味)である。要するに拓けば水田となる土地のことである。「地名の語源」では、「田をこしらえたところ」すなわち「新田」(中世地名/新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のこと)とする。
また、田代神社の宮田や耕地整理区域などから石包丁や弥生式の土器が出土した事実もある。特に前者は薄い石材を使い片手で操作できるもので稲の穂を摘む道具として利用されたものである。したがって,田代地区は比較的早い時期に水田農耕文化を有していたと推定される。
所在地「田代」の地名はどのような意味合いをもって命名されたものであろうか。田代とは、水田適地の義(意味)であり、墾地(切り拓けば農地になる土地)と同義(同じ意味)である。要するに拓けば水田となる土地のことである。「地名の語源」では、「田をこしらえたところ」すなわち「新田」(中世地名/新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のこと)とする。
また、田代神社の宮田や耕地整理区域などから石包丁や弥生式の土器が出土した事実もある。特に前者は薄い石材を使い片手で操作できるもので稲の穂を摘む道具として利用されたものである。したがって,田代地区は比較的早い時期に水田農耕文化を有していたと推定される。
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