学校の様子
怒濤の表彰ラッシュ①・・・次々と・・(教職員編)
2月15日(木)~2月21日(水)
【パート1】教師編
怒濤の一週間・・表彰ラッシュでした。
これまでの積み重ねがこの表彰つながりました。
今日はその一部を授与日順で御紹介いたします。
まずパート1は、先生の表彰と頑張りの紹介です。
2月15日(木)【都城市小中学校教職員教育研究論文表彰】
最優秀賞 本校教諭
本市で毎年実施されている教育研究論文。それに自ら応募し、今回見事「最優秀賞」に選ばれ、この日表彰されました。
この日は、本授与式直後に、最優秀賞者のみ「論文」に基づいたプレゼン発表も控えていたため・・・
前日まで、限られた時間の中で作成と練習を行い当日を迎えました。
日頃より学級担任として子どもの成長を願いながら授業を行い、その成果を発表されました。
最優秀賞はなかなかとれない素晴らしい賞です。おめでとうございます。
特別賞 本校教頭
教頭先生も管理職として応募し本賞を授与されました。
日頃から、長けたICTの技能を生かし、働き方改革や授業改善につながる実践を論文をまとめられました。
どの学校にも導入した方がいい事例も掲載されており、素晴らしい取組を認められました。
職員向けの自作サイトも作成し、スケジュール管理(共有カレンダーから職員のスマホでも閲覧可)もとっても使いやすいですよ。
おめでとうございます。そして、ありがとうございます。
この日には、都城市教育研究所の一年間のまとめのプレゼン発表もありました。
【表彰とは異なりますが・・・】
本校職員の学校以外での頑張りを紹介いたします。
都城市教育研究所の歴史は古く、毎年12名程度の教員が各校より選抜されて組織されます。
今年度は昨年度に引き続き、本校の職員も1名所員として本市児童生徒の学力向上と教職員の授業力向上及び資質向上について研究を続けてきました。
当日は参加している教職員に向けてのプラスとなる貴重な提案と成果のプレゼンでした。
二年間にわたる研究に感謝です。ありがとうございました。
このような丸野小学校の全職員の実践や研究、努力が、本校児童の成長につなげられるよう全力で取り組んでまいります。なにとぞよろしくお願いします。
今年度最後のマイブン(6年生)
2月13日(火)
名残は惜しいですが、今年度は最終回のマイブン。
6月20日(1学期)と10月26日(2学期)に引き続き、3回目の都城市の埋蔵文化財を利用した文化財啓発普及活動の一環で実施されている事業。
今回は、都城市の太平洋戦争について学びました。
1/23の本ホームページでも都城北飛行場について紹介しました。10/8の戦没者合同慰霊祭のホームページでも紹介しました。
戦時中は、都城市にも空襲(1945年8月6日)があり、多くの被害が出ました。
一方、中国大陸や朝鮮半島、南方の島々、海上といった戦場に多くの方が出征されており、戦い、無事に帰還された方もいれば、戦死・傷病死、公務病死された方も大勢います。
そんな歴史を学ぶことは、今からこの世界を、日本を、宮崎を、そして都城をリードしていく6年生にとっては必要不可欠な学習の一つです。
動画や写真で見たものを、実際に触って、当時の人に思いをはせることは、とても大切なことですね。
身に付けていた軍服や千人針、携帯用空襲警報(サイレン)・・・自分たちの命を、家族の命を守るためにどんな気持ちで、戦い、避難していたのでしょう。
人は「戦争は二度としてはならない」。当たり前のことですね。知っています。
でもその「戦争を起こすのも人です」。
二度と過ちを起こさないために歴史を学び、その思いを今後の人生に生かしていけるといいですね。
2日連続の快挙 ボランティアスピリッツ賞 小学校では初受賞
2月4日(日)
前日のプレゼンコンテスト発表&受賞の興奮覚めやらぬまま・・・・
今日の「みやこんじょボランティアフェスティバル~つながれボランティアの輪-未来へつなごうボランティアのバトン」の日を迎えました。
この日までの流れは本HP(1/16アップ分)をご覧いただくとして。
午後14時10分~授賞式となりました。
その授賞式に際して、本校の取組について2人の代表がそれぞれ、多くのギャラリーの前で堂々と説明してくれました。
内容は、地域への花の配布(4/18アップ)、をはじめ、高齢者施設への訪問(11/16アップ)と交流(コロナ禍でもオンラインで行っていました)、近隣子ども園(丸野キンダーガーテン様)との交流活動、日頃からお世話になっている皆様への交流&感謝《読み聞かせ(志和っ池様-5/15アップ他)、紙芝居(まねきねこ様-未投稿)、志和池見守り隊(5/17アップ他)、花ボランティア(4/26アップ他)、のお世話になっている多くの皆様等など》、地域貢献活動としてのゴミ拾い、歳末&被災地への募金活動(12月実施・未投稿や1/29アップ分)・・・確認してみたら・・こんなにボランティア活動について限られた時間ではありましたが説明してくれました。
その後、ボランティアスピリッツ賞について表彰されました。
これからも丸野小としてできるボランティアを続けていけるといいですね。
表彰状と景品(読売巨人軍 駒田徳広 三軍監督サイン 図書カード)
快挙ですよ、都城市小・中学校プレゼンコンテスト
2月3日(土)
やりましたよ皆さん
都城市のプレゼンコンテスト小学校の部において・・・「優秀賞」
6年生がやりましたよ皆さん
本校のテーマは SDGsから 「小さい秋みつけた」
プレゼンコンテストに向けてスタートしたのは2学期末(1/16の本HPをご覧下さい)
有志の中から組織されたメンバーとバックアップメンバーが協力しながらのプレゼンの作成。
その後一次審査を突破し、本日の本番。
午前中の予行練習。立ち位置などを全員で確認しています。
そして13時に開会式
しかし、その間に、実は舞台裏では・・・
予期せぬ不具合を、直前まで調整し続けていました。しかも自らの手で。
そして、準備万端整い、丸野小が出番を迎えました。
発表及び操作する4名がプレゼン前のインタビュー・・正々堂々と応答しています。
5分間の一発勝負 「小さい秋みつけた」
一人一人が、自らの担当を、これまでの練習の成果を存分に発揮し、見事な、見事な発表を完遂しました。
制限時間ぴったりと言っていい、4分59秒間のプレゼンでした。
そして堂々の
結果でした。表彰状は後日掲載いたします。
そして最後のあいさつと記念撮影。
本当に素晴らしいプレゼンでした。発表態度も取り組む姿勢も素晴らしいものでした。
さすが6年生、丸野小学校の代表です。
この日に向けた、昼休みの練習、原稿作り、みんなの応援・・・
明るく、楽しい、前向きな、そして美しい節分の日になりました。みんなに感謝です。
帰ってきた運動場~疾走(6年生)
1月30日(火)
2学期の10月から実施されていた運動場の整備工事(北門付近の整地や砂場の整備含む)が無事に完了しました。
まだ一部整備部分が残っていますが、大切にそして安全に使用することを条件に入る許可がおりました。
それにともない、校舎と運動場を区切っていた壁もなくなりました。開放感でいっぱいです。
子どもたちも室内の体育や室内での昼休みと制限された中での活動でもやもやしていたかも
約3ヶ月余りの工事でした。
北門からの登校もできませんでした。正門からの全員登校になりましたが、特に大きな問題はありませんでした。
みなさまのお陰です。
工事用のトラックもかなり出入りしていました。ご近所の方には、大変ご不便をおかけしたと思います。ご理解とご協力心より感謝いたします。
そして工事が終わり、この日・・・
「位置について、よーい」「どーん」
1番乗りの6年生が、帰ってきた新しい運動場に飛びだして行きました。
子どもたちには、運動場を駆け回る姿がよく似合いますね。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
丸野小の運動場
今年4月の入学に向けて(6年生と新1年生)そして園との連携
1月26日(金)と1月30日(火)、そして1月31日(水)
「新入学」に向けての説明会が開かれました。
まずは、我らが6年生
1月26日は志和池中学校での親子参加での説明会でした。
今年度も昨年度に引き続き、学校ごとの短時間での説明会そして制服採寸等となりました。
4月入学後は、志和池中学校の1日の流れをのぞいてみると、50分間の授業、給食は35分間での準備~片付け
そして、部活動・・・さらには数学、美術、保健体育、技術・家庭、英語・・教科ごとに代わる先生たち、何よりも、志和池小学校も入学してくるので、友達もふえます。
制服を着ての、さらには自転車による通学・・・生活が大きく変わります。
残り丸野小に登校する日も1ヶ月余り、新しいスタートのための心身の準備が求められる6年生です。
君たちならできます。だいじょうぶです。
その翌週の1月30日(火)には・・・・・
4月から本校に入学してくる新入生のための保護者説明会と体験学習を行いました。
体験学習は1年生の教室で行いました。担当の先生との元気な声のやりとりが聞こえてきました。
さらにその翌日の1月31日(水)
隣接しているマルノキンダーガーデンの年長さんの活動を通じた研究会に参加しました。
そこでは、活発な中にも決まりを守って、最後まで保育士さんの指示を聞くことのできる立派な園児たちを目にすることができて、大変うれしくなりました。4月からこの園児の中の複数のおともたぢが丸野小学校入学してきます。温かくお迎えします。
まってるよみんな
養護教諭。ただいま、研究授業中。(4年生)
1月25日(木)
本校にももちろん養護教諭がいます。児童養護の要として全力で勤務されています。
養護教諭ってそう、保健室の先生のことです。
閲覧されている皆さんも一度は保健室を訪れたことが・・・あるのでは
そうそう、年に数回ある健康診断であったり、おしゃべりや相談にいったり、時には体調不良であったり、ケガで応急処置をしてもらったり、熱を測ったり、様々なことが思い出される・・・かもしれませんね。
養護教諭のお仕事は、多岐にわたります。
健康観察・・・ありましたねぇ。毎朝、担任の先生が名前を呼んだりして返事したりしていませんでしたか?
今は・・・オンラインで保護者からの健康状態の連絡もあり、さらにスマート化されています。
そんな時代のニーズにも対応していくためにも、教員(教諭や養護教諭など)は自分自身の指導力や教職教養、専門の知識を高め、経験を積み、磨き、それぞれの専門の教育や指導に生かしていく研修が計画されているんですよ
そんな、養護教諭の先生も、もちろんですが研修が計画され、その中の一つに研究授業が計画されています。
その模様を写真でお伝えします。
今回は4年生での「命の授業」の様子です。
手作りの教材も掲示しながら
子どもたちや学級担任とともに、いつもの笑顔で、素晴らしい授業を組み立てられました。
今日もまた、本校で信頼される養護教諭が活躍されています。
これからもよろしくお願いいたします。
いつまでも心に残っていく学校給食~ありがとうございます
1月24日(水)
定期的に養護教諭から、「まるのっこだより」(保健室便り)が発行されています。
この便りは、保護者向けに安心メールを通じてデジタル配布していますが、今回の「給食感謝」という内容について作成されていたので、紹介もかねてホームページに掲載しました。
この便りでは、日々の児童の安全と健康を守るための取り組みや連絡事項を紹介しています。
便りの文面からは、「学校環境衛生検査」という聞き慣れない言葉も読み取れます。
照度計による教室の明るさも定期的に検査します。
コロナ禍でよく聞かれるようになった二酸化炭素濃度の検査もしました。「異常なし」とのこと。
水道水も毎日検査しているんですよ。安心して利用しましょう。そして換気、手洗い、うがいも忘れずに。
さて「給食感謝集会」。
便りの写真にもありますが、「栄養教諭」の先生を校外からお招きして、学年ごとによるメッセージ授与や感謝の言葉を伝えました。
学校では、給食が給食コンテナ室に届くと、それを4時間目の終了後に、各学年の給食当番が教室まで運び、配膳、そして給食をとり、片付けをしています。マナーもふくめて指導もします。
しかし、その前後には、材料の仕入れや給食センターでの調理、運搬、食器あらいといった、給食にかかわる方が多く存在していることも忘れてはならないですね。
人が健康に、そして楽しく生きていく上で欠かせない「食」。
本市では公立の小中学校では当たり前の「給食」。
しかし、本市の場合、中学卒業後は、食べたくても、時を戻さない限り食することはなかなか難しい「給食」
大人になると、懐かしく思い出す「給食」のメニュー。
先の割れたスプーン。おぼん。給食着。食缶からお椀についでいた配膳。
一つ一つの光景や経験が人の成長と、味覚や記憶に残る、有り難い給食。
「いただきます」&「ごちそうさまでした」
そして、いつも、ありがとうございます。
ゆきふった It snowed (郷土・都城市&霧島&丸野)
1月23日(火)~24日(水)にかけて
この日は、気象情報でも、全国的に「寒波」が押し寄せるとの予想が出ていました。
朝から、凍える寒さであったものの、3年生の飛行場跡見学時は、雪がチラッ、ちらっと舞っているだけでした。ただし、本格的な雪とはほど遠い感じでした。
しかし、その夜・・・・
《7時過ぎの西都城駅周辺の様子》
ご覧のように、道に積もるほどではありませんでしたが、「雪だっ」と感じる降り方でした。南国ならではですね。
次の日の早朝(6時半頃)には、何もなかったかのように、東の空には太陽が昇ろうとしていました。
少々見えづらいですが、丸野小の近くの消防団横から、東の空から北西の霧島山の様子を撮影しました。
まだ朝が早く、東には太陽の光が、そして、霧島の西側には月も輝いています。
あらっ雪はいずこに
太陽が昇ってくると・・・
見えてきました、雪が。
雄大な霧島山にはうっすらと雪が積もっていました。
令和6年初の雪化粧した霧島でした。
子どもたちは、こんな景色を眺めながら、登校しています。
これもまた「丸野のよさ」の一つです。
都城北飛行場(野々美谷町)って知っていますか?(3年生)
1月23日(火)
丸野小学校校区には「都城北飛行場跡」があります。
飛行場跡とは、空を飛ぶ飛行機が離着陸していた場所のこと 「えっ、そんな場所ないよ・・・」
丸野小学校の校区内には、そんな場所は、「現在」は、見当たりません。
もちろん「跡(あと)」ということなので、今はないのかな・・
見学を始めた3年生の児童もがいっぱい頭の中を巡っていたと思います。
都城北飛行場は、昭和19年~20年(今から約80年前)にかけて、旧日本陸軍が軍用の飛行場としてつくりました。昭和19年~20年は、まさに、日本は外国との戦争のまっただ中。
都城北飛行場建設のために、本地域住民はもちろん高原町や小林からも動員され、耕地作業を行ったとのこと。
そして肝心の滑走路は、東北東より西南方にも幅160㍍、延長1600㍍の大きさでした。
さらに、敵の攻撃から、飛行機をかくす場所も林の中につくられていました。
そして、都城北飛行場は、「特別攻撃隊(特攻隊)」のための飛行場でした。
昭和20(1945)年7月に、岡山から都城北飛行場にやってきたある特攻隊員の回想録によると、
その方は、昭和20(1945)年の2月に特攻隊員になられたそうです。その後、5月に埼玉県の熊谷飛行場において、飛行機(機体は暗緑色にぬられ、後ろの座席にはドラム缶が搭載されていた改造機)が与えられ、その後、その飛行機で岡山に移ったとのこと。
岡山では、同じ飛行機で、海上での実戦訓練(超低空による水平飛行や漁船を敵と見立てた体当たりの訓練)を行い、その後、都城北飛行場にやってきたそうです。
都城北飛行場では、特攻隊員たちは「三角兵舎」に寝泊まりをしていたとのこと。(現在は鹿児島県の知覧に同じような兵舎が復元されています。)
8月になると、敵の飛行機が都城北飛行場の上空をよく飛ぶようになり、飛行訓練もなかなか思うようにできなくなったとのこと。来る日も来る日も「三角兵舎」で過ごし、重苦しい空気と、間近に迫る死への恐怖も感じながら、遺書を何度も読み返したり、身の回りの私物の整理をするだけの日が続いたそうです。
こんな身近な場所に、今から約80年前に、命の大切さを強く感じながら、それでも特攻隊としての強い責任を負い、毎日過ごしていた人たちがいたことを忘れてはなりませんね。
かけがえのない命は尊く、命の大切さは人としての生き方そのもの・・・ですから。
3年生のみなさんは、この活動を通して必ず何か「感じ、考え」てくれたことだと思います。
みなさんは、先人たちに、どんな言葉をかけますか