梶山事典
1回目更新 ➡ 令和6年1月12日
2回目更新 ➡ 令和6年5月18日
3回目更新 ➡ 令和6年8月19日
4回目更新 ➡ 令和6年11月25日
1 はじめに
・梶山や三股町は、文化と歴史の地域です。地域には、文化財もたくさんあります。
文化財とは
・文化財は、我が国の長い歴史の中で生まれ、先人によって、今日まで守り伝えられてきた古い建物、美術品、伝統芸能、生活や文化などを含みます。
・これらの文化財は私たちの暮らしや心を豊かにしてくれるものであり、先人が残した文化財を未来の人々に、確実に守り継いでいくことが求められています。
これまでの梶山小学校児童の文化・歴史学習
・梶山や三股町は、様々な文化財が残されている地域です。本校の児童は、学年限定ですが、毎年、梶山や三股町に関係のある文化財等の調べ学習を行っています。これまでにも、梶山小学校に在籍した多くの児童が、文化財等の調べ学習を行っています。
これからの梶山小学校や三股町児童の文化・歴史学習
・これまで、本校児童が残した文化や歴史に関する「調べ学習の成果物や記録」が校内に多く残っています。これらの成果を残しておきたいと考えました。
・文化財や歴史は、児童にとって取扱いが困難な時があります。その時に、この梶山事典で、国語辞典と同じように言葉を理解し、インターネット等で調べた文章を、より理解してほしいと思います。梶山小校区の方々にも、文化財の確かめとして見て頂ければと考えています。
○調べ学習がスムーズに進むように、50音字ごとに文化財に関する項目が並べています。
○梶山事典は、本校児童の調べ学習の成果物(お祭り辞典・梶山の歴史集・壁新聞)等の記述がベースになっています。その記述の編集を、令和5年度以降、校長を中心にして行っています。
誤った情報や不適切な表現に気付かれた方は、教えていただきたいと思います。
2 「梶山事典」であつかっている文化財等
い:石寺原(いしでらばる)用水路
い:茨木寿郎(いばらきじゅろう)
お:沖水川(おきみずがわ)
お:おねっこ
か:梶山合戦(かじやまかっせん)
か:梶山小学校(かじやましょうがっこう)
か:梶山小学校150周年記念式典(150しゅうねんきねんしきてん)
か:梶山城(かじやまじょう)
か:梶山棒踊り(かじやまぼうおどり)
か:梶山盆灯篭(かじやまぼんとうろう)
か:カッパ伝説
か:上米公園(かみよねこうえん)
き:切寄(梶山)番所跡(きりよせばんしょあと)
こ:腰掛石(こしかけいし)
こ:金剛力士像(こんごうりきしぞう)
し:椎八重公園(しいばえこうえん)
せ:正道館(せいどうかん)
た:田上俵踊り(たがみたわらおどり)
た:田の神さぁ(たのかんさぁ)
だ:大昌寺(だいしょうじ)
な:長田峡(ながたきょう)
な:長田の石敢当(ながたのいしがんとう)
な:中原遺跡(なかばるいせき)
な:長原遺跡(ながはるいせき)
な:長原の田の神さぁ(ながはるのたのかんさぁ)
は:早馬神社(はやまじんじゃ)
は:早馬祭り(はやままつり)
ほ:北郷兄弟のお墓(ほんごうきょうだいのおはか)
み:御崎神社(みさきじんじゃ)
み:三島通庸(みしまみちつね)
み:三股駅(みまたえき)
み:三股町(みまたちょう)
み:三股町のおいたち(みまたちょうのおいたち)
み:三股町の特徴(みまたちょうのとくちょう)
み:三股町の4大行事(みまたちょうのよんだいぎょうじ)
め:眼鏡橋(めがねばし)
や:矢ヶ淵公園(やがふちこうえん)
や:山下糺(やましたただし)
ろ:六月灯(ろっがっとう)
3 梶山の歴史・文化財
い:石寺原(いしでらばる)用水路
・石寺原(いしでらばる)用水路工事は、茨木寿郎(いばらきじゅろう)、山下糺(ただし)・山下啓蔵(けいぞう)親子によって完成しました。むかし、梶山の石寺原は見わたすかぎりの原野で、竹林やぞうき林が民家の屋根をおおい、まむしやきつねが多く、夜道はめったに歩けないほどだったそうです。また、2回にわたって石寺原全体を焼きつくすほどの火事がおこりました。そのころ石寺原では、生活に必要な水を何度も沖水川にくみに行かなければならないほどたいへん水の便が悪かったため、すぐに火を消せずに思わぬ大火になってしまいました。人々は、原野に多が開かれること、生活に必要な水や防水用の水が確保しやすくなることを強くのぞんでいました。そこで、茨木寿郎(いばらきじゅろう)と山下糺(ただし)が、沖水川から水をひいてきたら、みんなが助かるのではないかと考えたのです。
い:茨城寿郎 (いばらきじゅろう)
・茨域寿郎は、三股村長をつとめました。何とか梶山の地域に用水路を引き、人々の生活をゆたかにしたいと考え、山下糺(ただし)とともに、石寺原(いしでらばる)用水路をつくりました。当時の技術では用水路をつくるのは時間もお金もかかり、成功するかどうかわからなかったので、地主の中には反対する人も多くいました。それでもあきらめず、日夜ねることも食べることも忘れたかのように村中を歩き回って、用水路の必要性を説得しました。その結果、ついに用水路を引くことが認められました。しかし、工事が着工する前に、寿郎は病気でなくなってしまいました。
その後、石寺原(いしでらばる)用水路工事は、山下糺(ただし)・山下啓蔵(けいぞう)親子に引き継がれ、そして、ついに明治41年、石寺原(いしでらばる)用水路は、完成しました。
お:沖水川(おきみずがわ)
・年間降水量の多い鰐塚山地を源流とする沖水川は、豊かな水を供給するめぐみの川でありながら、梅雨時の長雨や台風がくると、暴れ川にかわる。しかも、川は砂礫層(されきそう)の上を流れているため、流れ下るほどに水は砂礫層にしみこみ、水量豊かな上流と、水量の少ない下流では、川の流れは違う姿を見せてきました。そのため、上流と下流では、洪水とかんばつという全く違う2つの災害と戦う日々を送ってきました。川ぞいの平地を豊かな米のみのる土地に作り替えるために、三股の人々はなみなみならぬ努力をはらって用水路を築いてきました。
お:おねっこ
・おねっこは、田上地区で、毎年1月第2土曜日に行われる行事です。昔は、おねっこでは、田んぼの俵を重ねて燃やしました。そして、竹にさしたもちを焼いて、みんなで食べていました。今年のおねっこは、竹をたくさん燃やしました。大人は竹筒に入れたお酒を温めて飲んでいました。おねっこには、豚汁や焼き鳥など、たくさんの食べ物があります。燃やした火が消えたら、おねっこは終わりです。おねっこは、北諸県地方で行われていて、鬼火焼きとも言われているそうです。その年1年間を健康に過ごせることを願って行われる行事です。三股町内では、現在6か所でおねっこをしているそうです。
か:梶山合戦(かじやまかっせん)
・「山田聖栄自記」などの史料によると、北郷久秀・忠通兄弟は、応永元年(1394)に起こった梶山城での合戦(梶山合戦)で戦死したと伝えられています。北郷兄弟が亡くなる2年前の明徳3年(1392)には南北朝の合一が成立しましたが、南九州では争乱の火種がくすぶり続けました。その一つが梶山合戦でした。忠通は応永元年2月17日に討ち死にし、久秀も同年3月7日に重傷を負い、石に腰掛けたまま絶命しました。梶山地区には腰掛石が伝わっています。
か:梶山小学校(かじやましょうがっこう)
・梶山小は令和5年10月10日に150周年を迎えた歴史ある学校です。令和2年改訂の「わたしたちの三股町」の梶山地区マップの梶山小学校の紹介文では、「歴史教育も盛んな地域密着型小学校」と書かれています。令和6年5月現在、児童数は77名、教職員数は17名の小規模校です。
か:梶山小学校150周年記念式典(かじやましょうがっこう150しゅうねんきねんしきてん)
・令和6年2月22日(木)の午前中に、「梶山小150周年記念式典」を実施しました。PTA会長と学校運営協議会委員長に来賓のあいさつをいただき、その後は、6年生の意見発表、全校児童による音楽発表を実施しました。保護者のみなさんや来賓のみなさんからは、「感動しました」「1年生の歌う姿に涙がでてきました」「とても素晴らしい式典でした」などの感想をいただきました。PTA役員さんを中心に1年も前から計画されていた、「梶山小150周年記念式典」が、大成功のもと、終わりました。子供たちは、「梶山小150周年記念」として、紅白まんじゅうやお菓子をPTAからいただきました。
か:梶山城(かじやまじょう)
・梶山城(かじやまじょう)は、現在の宮崎県北諸県郡三股町大字長田字城内にあった山城で、「庄内十二外城」の1つです。梶山集落北方の、標高約240メートルの台地上に位置します。別名、小鷹城(こたかじょう)とも呼ばれる山城です。現在残っている遺構として、土塁・堀切・虎口・横堀があります。正平7年(1352年)、樺山資久によって築城されたという伝承があり、元和元年(1615年)に廃城となるまで約260年間、南九州の覇権を巡る争いの中で、要害の地として活用されました。
城主は、260年間の間に、樺山氏、高木氏、伊藤氏、北郷氏、伊集院氏、島津氏と変わっていきました。
か:梶山棒踊り(かじやまぼうおどり)
・朝鮮の役(1592~1598)に、梶山から出陣した人々が戦陣の合間に、棒踊りを習い覚えました。その棒踊りは、「薩摩示現流」をもとにした踊りで、その踊りを故郷に伝えた。梶山で組織だって踊られたのは、長田棒踊りと同じで、「殿様の狩」の時が始まりであったようです。明治末、茨城重彦氏により、梶山青年団が組織化され、地域の振興に役立ちました。戦後、梶山地区の過疎の為、途絶えてしまいましたが、後継ぎが絶えるという事は、先祖様に対しても申し訳ないという思いで、昭和62年に再演されるようになりました。現在は、早馬祭りや梶山小運動会で踊られています。
か:梶山盆灯篭(かじやまぼんとうろう)
・梶山地区では、毎年盆の時期になるとたくさんの手作り灯籠が飾られ、幻想的な風景が楽しめます。梶山地区一体となった取組で、赤、青、緑、黄色の灯籠が軒先にずらりと下げられ、通り行く人々を癒やしています。「ひとつひとつの明かりは小さいけれど、みんなの明かりを集めれば明るく、多くの人が元気になる。」「結い」の心を示しているそうです。
か:カッパ伝説
・三股町では、河童を「がぐれ」「ガラッパ」と呼び、町内にも数多くの河童伝説が残っています。その昔、梶山地区にある「めがね橋」がかかる深く青い淵は子どもたちの遊び場となっていました。この淵で一人の子どもが行方不明になりました。河童の仕業だと思い、つかまえた河童に、台所の水を頭からかぶせました。河童は、急に元気になり、感謝して逃げたそうです。まもなく、子供は見つかりました。それ以来、昼間は淵の底から、道行く人や子どもたちを見守っていると言われています。
か:上米公園(かみよねこうえん)
上米公園は、 今から約700年前に樺山資久がいた城跡である。この公園に立って西側を望めば、霧島連山が見える。上米公園には、灌漑用の貯水池があり、その周りには、春にはツツジやサクラが咲き誇り、秋にはモミジが楽しめる。約500本のソメイヨシノが咲き誇る桜まつりには、ライトアップされた桜が水面に映る。
き:切寄(梶山)番所跡(きりよせばんしょあと)
・梶山は、江戸時代を通して都城島津家領でした。薩摩藩が9か所の陸地番所を設ける中、その内3か所は、三股町内にあったそうです。人々や物資の流通に対して厳重な取り締まりが行われ、飫肥藩に対する藩堺警備を含んでいたことから、三股町梶山が重要な地域であったことを物語っています。
こ:腰掛石(こしかけいし)
・1394年2月17日の合戦(今から630年前)で、北郷忠通(ほんごうただみち)は、討ち死に合いました。同3月7日の合戦では、兄北郷久秀(ほんごうひさひで)も傷つき、石に腰をかけ、しばらく休んだが、そのまま息絶えました。その時に、北郷久秀が腰かけた石が腰掛け石として残っています。
こ:金剛力士像(こんごうりきしぞう)
阿形と吽形(あぎょうとうんぎょう)の二体があります。阿形は、髭(ひげ)と左手と左手で持っていた金剛棒が欠落しており、顔もこわれています。吽形は、髭(ひげ)と右手と右手で持っていた金剛杵(こんごうきね)が欠落しており、顔もつぶれています。建立は、1738年で、今から約300年前です。
し:椎八重公園(しいばえこうえん)
新緑の季節に、約6万本のクルメツツジが咲き誇る。八重桜は50本ある。展望台から様々な風景を楽しめる。
せ:正道館(せいどうかん)
・正道館は、梶山・長田地区の中学生を鍛錬する道場として、1928年10月に龍雲館(1902年2月:山王原稲荷神社社務所を借用)から分離独立しました。道場は中原小学校(現在の梶山小学校)校庭の東南隅に建設されました。現在その場所には、プールがあります。正道館の場所が分かるように、正道館の標柱があります。館のきまりや行事は、龍雲館と同じでしたが、中学生以外の青年も入館できました。主に柔剣道の練習をしていたそうです。道場は、1956年(昭和31年)に三股町に寄付されましたが、その後も梶山小学校の雨天体操場として利用されました。1963年(昭和38年)7月に撤去されました。
た:田上俵踊り(たがみたわらおどり)
・昭和24年12月、三股町新馬場にある広済寺の梵鐘(ぼんしょう)と楼門(ろうもん)が建立(こんりゅう)された時に、門徒(もんと)でもある田上地区の青年たちがこれを祝って、この俵踊りを奉納(ほうのう)したことに始まります。踊りは、田遊び神事(五穀豊穣(ごこくほうじょう)や子孫繁栄(しそんはんえい)を祈願し神に奉納する)で演じる所作(しょさ)をもとにしています。また、踊りの中には相互扶助の心を織り込んでいるそうです。都城市山之口町冨吉などで踊られている踊りも参考にして、最終的には田上地区の風土に合わせて躍りあげています。
た:田の神さぁ(たのかんさぁ)
・旧薩摩藩内には「田の神」信仰があり、「田の神さぁ」(タノカンサー) と呼ばれる豊作を願う石像が、田んぼのわきに鎮座しています。三股町内で確認されている石像は「農民型」「神官型」など町の西側を中心に19体あるそうです。梶山地区にも1体あります。それぞれに個性的なお顔で土地のひとの暮らしを今も見つめています。「オットイタノカンサー」についてです。「オットイタノカンサー」とは「盗んだ田の神様」という意味です。なぜ盗むのでしょう(実際は借りるのですが)。理由は様々のようです。新しく水田が開発された時や、新しくできた村で田の神のない村では田の神のオットイを計画するそうです。これは、村の者全体の意志として決定され、後に返しに行く時に持参する謝礼の方法等まで、詳しく討議し、決定された上で若い者がオットイに派遣されるそうです。それが分かっているから盗まれた方も詮索(せんさく)をしないし(置手紙等をするそうです)、盗んだ方も約束を守る、そんな風習があったようです。
だ:大昌寺(だいしょうじ)
・大昌寺(山号は四徳山)は、北郷久秀・忠通兄弟の菩提を弔(とむら)うために、2人の父親である2代目の北郷義久が建立した寺院です。宗派は臨済宗で、元々の寺院名は霊照山薦福寺(れいしょうざんせんぷくじ)といいました。現地には久秀の法名である「薦福寺殿日山妙旦大禅定門」と刻まれた四角石柱が残っています。薦福寺は都城市都島町に移され(のちの龍泉寺)、梶山にはその末寺として大昌寺が建立されたようです。所在地は梶山小学校の北側にある梶山城跡(杉山)の南西麓で、『日向地誌』によれば慶応3年(1867)の段階で廃寺になりました。
な:長田の石敢当(ながたのせっかんとう:いしがんとう)
・石敢当は、丁字路の突き当り等に設けられます。一般的には石敢當(いしがんとう)と書かれることが多いですが、鹿児島県では、石敢当(せっかんとう)と書かれることが多いです。長田の石倉の隣にあります。魔物が丁字路などの突き当りにぶつかり、向かいの家に入らないように魔よけにもなっています。中国で発祥したもので、日本では、主に沖縄県に多く分布します。鹿児島県には1153基あり、宮崎県には94基あります。
な:長田峡(ながたきょう)
・長田峡は、江戸時代につくられた三国名称図絵(さんごくめいしょうずえ)などにも登場しており、太古(たいこ)から沖水川による浸食作用(しんしょくさよう)による造形の美が見られます。長田峡は、水が飛び散る急流であり、岩を穿(うが)ち、両岸は切り立った絶壁となっています。所々に、深い淵(ふち)があります。春はフジが咲き、秋はモミジの紅葉が見られ、三股町を代表する観光地です。
な:中原遺跡(なかばるいせき)
・平成16~17年度に発掘調査された梶山地区の中原遺跡(天神原地区)では、古墳時代の中期から後期にかけての集落跡が発見されました。竪穴住居跡15基、数多くの土坑、3本の溝状遺構などが検出され、竪穴住居跡からは、甕形、壺形、高坏形などの土師器がまとまって出土しました。町内では、このような本調査は初めてでしたので、貴重な考古資料の出土により、三股町の歴史をひもとく、一助となりました。
な:長原遺跡(ながはるいせき)
・三股町では、縄文時代の人々の活動が確認できる遺物(土器や石器)が採集されています。その代表的な遺跡が長原(ながはる)遺跡(通称:長原の丘)で、本格的な発掘調査は実施されていませんが、縄文土器の破片が採集されています。長原遺跡の土器片については、『三股町史』(以下、『町史』)の上巻(61ページ)によれば、土器片は縄文時代後期前葉から中葉にかけてのものです。また、長原遺跡は、鰐塚山地のふところに抱かれたような、三方を山に囲まれたテラス状の安定した台地上に立地しており、その台地の北側を沖水川の上流が、南側を内之木場川が流れており、周囲には山の幸や川の幸などが豊富で狩猟採集環境に恵まれていたと推察されます。この場所に拠点的な集落跡が形成されていた可能性は高いだろうということです。
な:長原の田の神さぁ(ながはるのたのかんさぁ)
長原にも田の神さぁがあります。この田の神は、大野農村広場の東方約200メートルの田んぼの土手にあります。かなり小型で稲穂が伸びると隠れてしまいます。町内では作成年代の分かる数少ない田の神で、左肩辺りに「大正六年 森田貞則 建設」の刻字が確認できます。この田の神のように、シキを被り、メシゲやお碗を持つというのが農民型の典型です。型式→農民座像型、像高→35センチ、被り物→シキ、持ち物→右手:メシゲ(しゃもじ) 左手:お碗、建立年代→大正6年
*シキとは、米を蒸す器である甑(こしき)の下に敷く網で編んだ敷物。
は:早馬神社(はやまじんじゃ)
・早馬神社は、馬頭観音(ばとうかんのん)を祭神(さいしん)としています。三島通庸(みしまみちつね)が庄内郷の地頭として、鹿児島から赴任した時、郷社(ごうしゃ)として建立(こんりゅう)されました。敷地内には、西南・日清・日露・太平洋戦争に従事した人々の記念碑や忠霊塔(ちゅうれいとう)があります。まわりには、大きな木がたくさんあり、植物や昆虫などの種類も多いです。
は:早馬祭り(はやままつり)
・早馬祭りは、早馬神社で、毎年4月29日に行われています。早馬祭りでは、「じゃんか馬」「べぶ踊り」「太郎踊り」「棒踊り」などが奉納(ほうのう)されます。もともとは4月25日に行われていたので、「二十五踊り」と言われていたそうです。早馬神社は、馬などの家畜の神様で、明治の初めに、地頭の三島通庸(みしまみちつね)が、産業を育てようと祭りを盛んにした神社です。
ほ:北郷兄弟のお墓(ほんごうきょうだいのおはか)
・お墓は五輪塔(ごりんとう)と呼ばれる石塔(せきとう)の一種で、右側が都城島津家3代目当主の北郷久秀、左側がその弟忠通のもので、高さは2基ともに約130㎝です。遺骨が納められているわけではなく、供養塔(くようとう)です。凝灰岩で造られており、町内にある五輪塔(ごりんとう)の中では良好な保存状態にあります。造立年代は不明だそうです。大昌寺(だいしょうじ)は、北郷久秀・忠通兄弟の菩提寺(ぼだいじ)で、もともとは、梶山小学校北側にある梶山城跡の南西麓にありましたが、明治時代初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となりました。 応永元年(1394年)に起こった梶山城での合戦(梶山合戦)で戦死した兄弟が幸せに悟りをひらくように、父島津義久(二代目当主)が大昌寺を建立し、歴代住職に守られた結果、2人のお墓は現代にも伝わっているのだそうです。
み:御崎神社(みさきじんじゃ)
・御崎神社は大字長田字牧にあります。祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)です。もともとは大字長田字宮脇にあって、現在地に移ったのは大正3年(1914)です。御崎神社ができたのは、江戸時代以前なのは間違いないのですが、詳しくはわかっていないそうです。
み:三島通庸(みしまみちつね)
・三島通庸(みしまみちつね)は、三股郷建設の父と呼ばれています。鹿児島から地頭として三股にやってきた三島通庸は、山王原を三股郷の拠点とし、大道路を縦横に通し、士族を移住させ、山王原を大集落にしました。また、政庁と学校を設け、学校には、鹿児島から教師を招き、子弟の教育にも力を尽くした。
み:三股駅(みまたえき)
・三股駅は、1914年に東原地区につくられました。1972年から1986年までの約15年間は、東都城駅となりましたが、今は再び三股駅になっています。無人駅ではあり日中の乗降客は減少していますが、朝夕は通勤や通学に利用され、町の貴重な交通機関となっています。
み:三股町(みまたちょう)
・本町は、いろいろ発掘される土器から、縄文時代には人が住んでいたことがうかがわれます。戦国時代は、伊東家と島津家の激しい領土争いの舞台になりましたが、伊東家滅亡以降、明治4年の廃藩置県まで薩摩藩に属しました。当時、町域は勝岡郷と梶山郷に分かれていましたが、明治2年、地頭として着任した三島通庸(みしまみちつね)が2郷を統一して三股郷として、現在の三股町の基礎が築かれました。明治22年に三股村となり、昭和23年に待望の三股町となりました。三股町は、町内を東西に伸びる県道33号線を端から端まで走っても20Km足らずというコンパクトタウンです。周囲を山々に囲まれた自然豊かな風景の中に、程よく家並みが続きます。三股駅と物産館「よかもんや」を拠点に、マイカーで移動するのもよし、コミュニティバスやレンタサイクルでのんびり移動するもよしです。
み:三股町のおいたち(みまたちょうのおいたち)
・三股町にはいろいろ発掘される土器から、縄文時代より人が住んでいたことがうかがわれます。また、その名の起源は「古くから川三条、股になりて流れている」と古い文献にあって、その名が「三股」になったといわれています。 徳川時代は薩摩藩に属し、明治の初め、当時の地頭三島通庸公(みしまみちつねこう)は三股の荒涼たる原野に土木をおこし、産業を奨励し教育の振興をはかって村造りをなし、ここ三股の基礎が築かれたのだそうです。明治22年(1889年)、町村制実施により三股村となり、昭和23年(1948年)5月3日に町制を施行して名実ともに三股町として発足しました。以来自治の発展に努め、文化農村建設を推し進め、積極的な企業誘致により町民の所得向上をはかりながら住みよい・豊かな田園工業都市をめざして躍進したそうです。
み:三股町の特徴(みまたちょうのとくちょう)
・三股町は、宮崎県の南西部、都城盆地に位置し、鰐塚山系や高千穂峰を背景にした自然豊かな「花と緑と水のまち」です。大自然の恩恵をいっぱいに浴びた米、野菜、茶、牛、ヤマメなどの農畜水産物、そして伝統工芸品である大弓、ごったん、陶芸品などの芸術性豊かな特産品が有名です。
み:三股町の4大行事(みまたちょうのよんだいぎょうじ)
・三股町では、1年を通していろいろな行事を行っています。その中でも、4大行事として、①「モノづくりフェア」、②「まちドラ!」、③「みまたん霧島パノラママラソン」、④「ふるさとまつり」があげられます。どの行事にも、三股町民や都城市民をはじめ、宮崎県内や鹿児島県内からも多くの方々が参加される行事です。
め:眼鏡橋(めがねばし)
・梶山橋(通称眼鏡橋)は、梶山と中野地区を結ぶ石橋です。この橋は、都城の職人2人がうけおって造ったものです。その2人に石屋が2.3人加わりました。橋の近くに大きな岩があって、そこを石切り場にして鉄製の矢とハンマーで石を切り出して、造りました。初めに、木材を組んで眼鏡橋の形に造って、その上に石を乗せて造っていきました。石をすべて組み終わってから木材をはずしました。平成6年に修復作業が行われました。川面から橋の路面までの高さは7m、長さは32m、幅は3.7mです。
や:矢ヶ淵公園(やがふちこうえん)
・長田峡の最下流にある公園です。梶山橋(昭和16年完成)があり、水面に映る形から通称「めがね橋」と呼ばれています。梶山地区では「天空橋」の名で親しまれてきました。カッパ伝説も残っています。
や:山下糺(やましたただし)
・茨城寿郎(いばらきじゅろう)がなくなった後、山下糺は、たくさんの村人の協力で用水路工事を進めました。しかし、取水口からそうとう長いきょりを、のみなどの道具を使って岩をけずっていくという作業は大変なものでした。ようやく一部開田(かいでん)することができましたが、その直後に糺も亡くなってしまいました。さらに、糺の意思をついだ息子の啓蔵(けいぞう)は、工事を続けました。開田はしたものの水がうまく通らずに、さらにちがう場所に取水口をつくりなおすなど、工事に長い年月をかけました。そして、ついに明治41年、石寺原(いしでらばる)用水路は、完成しました。
ろ:六月灯(ろっがっとう)
・六月灯(ろっがっとう)は、旧薩摩藩領の夏の風物詩。薩摩藩19代藩主・島津光久が、鹿児島市城山にある上山寺(じょうざんじ)観音堂が完成した時、灯籠を送ったそうです。これにならって家臣(かしん)や領民(りょうみん)も灯籠を送ったことに始まるといわれています。旧暦の6月(現在の7月)といえば梅雨が明けて夏の盛りです。牛馬の病気が大流行したり、田畑に病害虫が発生したりする季節でもあります。農民たちは毎晩夜明かしの灯(ひ)をつけて無病息災・五穀豊穣を祈ったそうです。
この農民たちの行事が洗練され、薩摩藩の風物詩として定着したと考えられているそうです。現在の六月灯は、奉納踊りや花火大会等も行われています。梶山小の子供たちも灯篭を奉納していますが、テレビやまんがの主人公やスイカやクワガタムシなどの夏の作物の絵など、個性豊かに描かれています。