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梶山の歴史と文化財

梶山の歴史・文化財事典(令和6年1月12日現在)*更新しています。

梶山の歴史・文化財事典(令和6年1月12日現在)*更新しています。

 

そもそも文化財ってなんでしょう。

文化財とは、我が国の長い歴史の中で生まれ、先人によって、今日まで守り伝えられてきた古い建物、美術品、伝統芸能、生活や文化などを含みます。これらの文化財は私たちの暮らしや心を豊かにしてくれるものであり、先人が残した文化財を未来の人々に、確実に守り継いでいくことが求められています。

 

これまでの梶山小学校児童の文化財学習への取組

・梶山小校区は、様々な文化財が残されている地域です。本校の児童は、学年限定ですが、毎年、梶山小校区に関係のある文化財等の調べ学習を行っています。これまでにも、梶山小学校に在籍した多くの児童が、文化財等の調べ学習を行っています。

 

これからの梶山小学校児童の文化財学習の取組のために

・これまで、本校児童が残した文化財等に関する「調べ学習の成果物や記録」が校内に多く残っています。今年度の児童も調べ学習を行いました。これらの成果を今後も残しておきたいと考えました。文化財や歴史は、児童にとって取扱いが困難な時があります。その時に、この「梶山の歴史と文化財一覧」で確かめることで、国語辞典と同じように言葉を理解したり、インターネット等で調べた文章を、より理解したりしてほしいと思います。梶山小校区の方々にも、文化財の確かめとして見て頂ければと考えています。

○調べ学習がスムーズに進むように、50音字ごとに文化財に関する項目が並べています。

○「梶山の歴史・文化財事典」は、本校児童の調べ学習の成果物(お祭り辞典・梶山の歴史集・壁新聞)等の記述がベースになっています。その記述の編集を、令和5年度の校長を中心にして行いました。

 誤った情報や不適切な表現に気付かれた方は、教えていただきたいと思います。

 

・「梶山の歴史・文化財事典」であつかっている文化財等(現在20項目)

お:おねっこ

か:梶山合戦(かじやまかっせん)

か:梶山城(かじやまじょう)

か:梶山棒踊り(かじやまぼうおどり)

か:梶山盆灯籠(かじやまぼんとうろう)

か:カッパ伝説

た:田上俵踊り(たがみたわらおどり)

た:田の神さぁ(たのかんさぁ)

だ:大昌寺(だいしょうじ)

な:中原遺跡(なかばるいせき)

な:長原遺跡(ながはるいせき)

は:早馬神社(はやまじんじゃ)

は:早馬祭り(はやままつり)

ほ:北郷兄弟のお墓(ほんごうきょうだいのおはか)

み:御崎神社(みさきじんじゃ)

み:三島通庸(みしまみちつね)

み:三股町

み:三股町のおいたち

み:三股町の特徴

め:眼鏡橋(めがねばし)

や:矢ヶ淵公園(やがふちこうえん)

ろ:六月灯(ろっがっとう)

 

お:おねっこ

・おねっこは、田上地区で、毎年1月第2土曜日に行われる行事です。昔は、おねっこでは、田んぼの俵を重ねて燃やしました。そして、竹にさしたもちを焼いて、みんなで食べていました。今年のおねっこは、竹をたくさん燃やしました。大人は竹筒に入れたお酒を温めて飲んでいました。おねっこには、豚汁や焼き鳥など、たくさんの食べ物があります。燃やした火が消えたら、おねっこは終わりです。おねっこは、北諸県地方で行われていて、鬼火焼きとも言われているそうです。その年1年間を健康に過ごせることを願って行われる行事です。三股町内では、現在6か所でおねっこをしているそうです。

 

か:梶山合戦

・「山田聖栄自記」などの史料によると、北郷久秀・忠通兄弟は、応永元年(1394)に起こった梶山城での合戦(梶山合戦)で戦死したと伝えられています。北郷兄弟が亡くなる2年前の明徳3年(1392)には南北朝の合一が成立しましたが、南九州では争乱の火種がくすぶり続けました。その一つが梶山合戦でした。忠通は応永元年2月17日に討ち死にし、久秀も同年3月7日に重傷を負い、石に腰掛けたまま絶命しました。梶山地区には腰掛石が伝わっています。

 

か:梶山城(かじやまじょう)

・梶山城(かじやまじょう)は、現在の宮崎県北諸県郡三股町大字長田字城内にあった山城で、「庄内十二外城」の1つです。梶山集落北方の、標高約240メートルの台地上に位置します。別名、小鷹城(こたかじょう)とも呼ばれる山城です。現在残っている遺構として、土塁・堀切・虎口・横堀があります。正平7年(1352年)、樺山資久によって築城されたという伝承があり、元和元年(1615年)に廃城となるまで約260年間、南九州の覇権を巡る争いの中で、要害の地として活用されました。

城主は、260年間の間に、樺山氏、高木氏、伊藤氏、北郷氏、伊集院氏、島津氏と変わっていきました。

 

か:梶山棒踊り(かじやまぼうおどり)

・朝鮮の役(1592~1598)に、梶山から出陣した人々が戦陣の合間に、棒踊りを習い覚えました。その棒踊りは、「薩摩示現流」をもとにした踊りで、その踊りを故郷に伝えた。梶山で組織だって踊られたのは、長田棒踊りと同じで、「殿様の狩」の時が始まりであったようです。明治末、茨城重彦氏により、梶山青年団が組織化され、地域の振興に役立ちました。戦後、梶山地区の過疎の為、途絶えてしまいましたが、後継ぎが絶えるという事は、先祖様に対しても申し訳ないという思いで、昭和62年に再演されるようになりました。現在は、早馬祭りや梶山小運動会で踊られています。

 

 

か:梶山盆灯籠(かじやまぼんとうろう)

・梶山地区では、毎年盆の時期になるとたくさんの手作り灯籠が飾られ、幻想的な風景が楽しめます。梶山地区一体となった取組で、赤、青、緑、黄色の灯籠が軒先にずらりと下げられ、通り行く人々を癒やしています。「ひとつひとつの明かりは小さいけれど、みんなの明かりを集めれば明るく、多くの人が元気になる。」「結い」の心を示しているそうです。梶山小でも、希望する子供は、御崎神社や梶山盆踊りに奉納していただけます。

 

か:カッパ伝説

・三股町では、河童を「がぐれ」「ガラッパ」と呼び、町内にも数多くの河童伝説が残っています。その昔、梶山地区にある「めがね橋」がかかる深く青い淵は子どもたちの遊び場となっていました。この淵で一人の子どもが行方不明になりました。河童の仕業だと思い、つかまえた河童に、台所の水を頭からかぶせました。河童は、急に元気になり、感謝して逃げたそうです。まもなく、子供は見つかりました。それ以来、昼間は淵の底から、道行く人や子どもたちを見守っていると言われています。

た:田上俵踊り(たがみたわらおどり)

・昭和24年12月、三股町新馬場にある広済寺の梵鐘(ぼんしょう)と楼門(ろうもん)が建立(こんりゅう)された時に、門徒(もんと)でもある田上地区の青年たちがこれを祝って、この俵踊りを奉納(ほうのう)したことに始まります。踊りは、田遊び神事(五穀豊穣(ごこくほうじょう)や子孫繁栄(しそんはんえい)を祈願し神に奉納する)で演じる所作(しょさ)をもとにしています。また、踊りの中には相互扶助の心を織り込んでいるそうです。都城市山之口町冨吉などで踊られている踊りも参考にして、最終的には田上地区の風土に合わせて躍りあげています。

 

た:田の神さぁ(たのかんさぁ)

・旧薩摩藩内には「田の神」信仰があり、「田の神さぁ」(タノカンサー) と呼ばれる豊作を願う石像が、田んぼのわきに鎮座しています。三股町内で確認されている石像は「農民型」「神官型」など町の西側を中心に19体あるそうです。梶山地区にも1体あります。それぞれに個性的なお顔で土地のひとの暮らしを今も見つめています。

「オットイタノカンサー」についてです。「オットイタノカンサー」とは「盗んだ田の神様」という意味です。なぜ盗むのでしょう(実際は借りるのですが)。理由は様々のようです。新しく水田が開発された時や、新しくできた村で田の神のない村では田の神のオットイを計画するそうです。これは、村の者全体の意志として決定され、後に返しに行く時に持参する謝礼の方法等まで、詳しく討議し、決定された上で若い者がオットイに派遣されるそうです。それが分かっているから盗まれた方も詮索をしないし(置手紙等をするそうです)、盗んだ方も約束を守る、そんな風習があったようです。他の地区の村人は皆仲が良く、よく働いて作物もよくできる、そういった村があると聞いた時に、それはその村の「田の神さあ」がいいからだということで、そこの「田の神さあ」にあやかるために「オットイ」を計画するようです。ただ、このルールは古い時代はよく守られたようですが、時代が進むにつれてルールは守られなくなり、帰ってこない田の神になり、ついにはオットラレないようにセメント付けになったものも多いようです。長原にも田の神さぁがあります。この田の神は、大野農村広場の東方約200メートルの田んぼの土手にあります。かなり小型で稲穂が伸びると隠れてしまいます。町内では作成年代の分かる数少ない田の神で、左肩辺りに「大正六年  森田貞則  建設」の刻字が確認できます。この田の神のように、シキを被り、メシゲやお碗を持つというのが農民型の典型です。型式→農民座像型、像高→35センチ、被り物→シキ、持ち物→右手:メシゲ(しゃもじ) 左手:お碗、建立年代→大正6年

 

だ:大昌寺(だいしょうじ)

・大昌寺(山号は四徳山)は、北郷久秀・忠通兄弟の菩提を弔(とむら)うために、2人の父親である2代目の北郷義久が建立した寺院です。宗派は臨済宗で、元々の寺院名は霊照山薦福寺といいました。現地には久秀の法名である「薦福寺殿日山妙旦大禅定門」と刻まれた四角石柱が残っています。薦福寺は都城市都島町に移され(のちの龍泉寺)、梶山にはその末寺として大昌寺が建立されたようです。所在地は梶山小学校の北側にある梶山城跡(杉山)の南西麓で、『日向地誌』によれば慶応3年(1867)の段階で廃寺になりました。

 

な:中原遺跡(なかばるいせき)

・平成16~17年度に発掘調査された梶山地区の中原遺跡(天神原地区)では、古墳時代の中期から後期にかけての集落跡が発見されました。竪穴住居跡15基、数多くの土坑、3本の溝状遺構などが検出され、竪穴住居跡からは、甕形、壺形、高坏形などの土師器がまとまって出土しました。町内では、このような本調査は初めてでしたので、貴重な考古資料の出土により、三股町の歴史をひもとく、一助となりました。

 

な:長原遺跡(ながはるいせき)

・三股町では、縄文時代の人々の活動が確認できる遺物(土器や石器)が採集されています。その代表的な遺跡が長原(ながはる)遺跡(通称:長原の丘)で、本格的な発掘調査は実施されていませんが、縄文土器の破片が採集されています。長原遺跡の土器片については、『三股町史』(以下、『町史』)の上巻(61ページ)によれば、土器片は縄文時代後期前葉から中葉にかけてのものです。また、長原遺跡は、鰐塚山地のふところに抱かれたような、三方を山に囲まれたテラス状の安定した台地上に立地しており、その台地の北側を沖水川の上流が、南側を内之木場川が流れており、周囲には山の幸や川の幸などが豊富で狩猟採集環境に恵まれていたと推察されます。この場所に拠点的な集落跡が形成されていた可能性は高いだろうということです。

 

は:早馬神社(はやまじんじゃ)

・早馬神社は、馬頭観音を祭神としています。三島通庸(みしまみちつね)が庄内郷の地頭として、鹿児島から赴任した時、郷社として建立されました。敷地内には、西南・日清・日露・太平洋戦争に従事した人々の記念碑や忠霊塔(ちゅうれいとう)があります。まわりには、大きな木がたくさんあり、植物や昆虫などの種類も多いです。

 

は:早馬祭り(はやままつり)

・早馬祭りは、早馬神社で、毎年4月29日に行われています。早馬祭りでは、「じゃんか馬」「べぶ踊り」「太郎踊り」「棒踊り」などが奉納されます。もともとは4月25日に行われていたので、「二十五踊り」と言われていたそうです。早馬神社は、馬などの家畜の神様で、明治の初めに、地頭の三島通庸(みしまみちつね)が、産業を育てようと祭りを盛んにした神社です。

 

ほ:北郷兄弟のお墓(ほんごうきょうだいのおはか)

・お墓は五輪塔と呼ばれる石塔の一種で、右側が都城島津家3代目当主の北郷久秀、左側がその弟忠通のもので、高さは2基ともに約130㎝です。遺骨が納められているわけではなく、供養塔(くようとう)です。凝灰岩で造られており、町内にある五輪塔(ごりんとう)の中では良好な保存状態にあります。造立年代は不明だそうです。大昌寺(だいしょうじ)は、北郷久秀・忠通兄弟の菩提寺(ぼだいじ)で、もともとは、梶山小学校北側にある梶山城跡の南西麓にありましたが、明治時代初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となりました。 応永元年(1394年)に起こった梶山城での合戦(梶山合戦)で戦死した兄弟が幸せに悟りをひらくように、父義久(二代目当主)が大昌寺を建立し、歴代住職に守られた結果、2人のお墓は現代にも伝わっているのだそうです。

 

み:御崎神社(みさきじんじゃ)

・御崎神社は大字長田字牧にあります。祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)です。もともとは大字長田字宮脇にあって、現在地に移ったのは大正3年(1914)です。御崎神社ができたのは、江戸時代以前なのは間違いないのですが、詳しくはわかっていないそうです。

 

み:三島通庸(みしまみちつね)

・三島通庸(みしまみちつね)は、三股郷建設の父と呼ばれています。鹿児島から地頭として三股にやってきた三島通庸は、山王原を三股郷の拠点とし、大道路を縦横に通し、士族を移住させ、山王原を大集落にしました。また、政庁と学校を設け、学校には、鹿児島から教師を招き、子弟の教育にも力を尽くした。

 

み:三股町

・本町は、いろいろ発掘される土器から、縄文時代には人が住んでいたことがうかがわれます。戦国時代は、伊東家と島津家の激しい領土争いの舞台になりましたが、伊東家滅亡以降、明治4年の廃藩置県まで薩摩藩に属しました。当時、町域は勝岡郷と梶山郷に分かれていましたが、明治2年、地頭として着任した三島通庸(みしまみちつね)が2郷を統一して三股郷として、現在の三股町の基礎が築かれました。明治22年に三股村となり、昭和23年に待望の三股町となりました。三股町は、町内を東西に伸びる県道33号線を端から端まで走っても20Km足らずというコンパクトタウンです。周囲を山々に囲まれた自然豊かな風景の中に、程よく家並みが続きます。三股駅と物産館「よかもんや」を拠点に、マイカーで移動するのもよし、コミュニティバスやレンタサイクルでのんびり移動するもよしです。

 

み:三股町のおいたち

・三股町にはいろいろ発掘される土器から、縄文時代より人が住んでいたことがうかがわれます。また、その名の起源は「古くから川三条、股になりて流れている」と古い文献にあって、その名が「三股」になったといわれています。 徳川時代は薩摩藩に属し、明治の初め、当時の地頭三島通庸公(みしまみちつねこう)は三股の荒涼たる原野に土木をおこし、産業を奨励し教育の振興をはかって村造りをなし、ここ三股の基礎が築かれたのだそうです。明治22年(1889年)、町村制実施により三股村となり、昭和23年(1948年)5月3日に町制を施行して名実ともに三股町として発足しました。以来自治の発展に努め、文化農村建設を推し進め、積極的な企業誘致により町民の所得向上をはかりながら住みよい・豊かな田園工業都市をめざして躍進したそうです。

 

み:三股町の特徴

・三股町は、宮崎県の南西部、都城盆地に位置し、鰐塚山系や高千穂峰を背景にした自然豊かな「花と緑と水のまち」です。大自然の恩恵をいっぱいに浴びた米、野菜、茶、牛、ヤマメなどの農畜水産物、そして伝統工芸品である大弓、ごったん、陶芸品などの芸術性豊かな特産品が有名です。

 

め:眼鏡橋(めがねばし)

・梶山橋(通称眼鏡橋)は、梶山と中野地区を結ぶ石橋です。この橋は、都城の職人2人がうけおって造ったものです。その2人に石屋が2.3人加わりました。橋の近くに大きな岩があって、そこを石切り場にして鉄製の矢とハンマーで石を切り出して、造りました。初めに、木材を組んで眼鏡橋の形に造って、その上に石を乗せて造っていきました。石をすべて組み終わってから木材をはずしました。平成6年に修復作業が行われました。川面から橋の路面までの高さは7m、長さは32m、幅は3.7mです。

 

や:矢ヶ淵公園(やがふちこうえん)

・長田峡の最下流にある公園です。梶山橋(昭和16年完成)があり、水面に映る形から通称「めがね橋」と呼ばれています。梶山地区では「天空橋」の名で親しまれてきました。カッパ伝説も残っています。

 

ろ:六月灯(ろっがっとう)

・六月灯(ろっがっとう)は、旧薩摩藩領の夏の風物詩。薩摩藩19代藩主・島津光久が、鹿児島市城山にある上山寺(じょうざんじ)観音堂が完成した時、灯籠を送ったそうです。これにならって家臣(かしん)や領民(りょうみん)も灯籠を送ったことに始まるといわれています。旧暦の6月(現在の7月)といえば梅雨が明けて夏の盛りです。牛馬の病気が大流行したり、田畑に病害虫が発生したりする季節でもあります。農民たちは毎晩夜明かしの灯(ひ)をつけて無病息災・五穀豊穣を祈ったそうです。

この農民たちの行事が洗練され、薩摩藩の風物詩として定着したと考えられているそうです。現在の六月灯は、奉納踊りや花火大会等も行われています。梶山小の子供たちも灯篭を奉納していますが、テレビやまんがの主人公やスイカやクワガタムシなどの夏の作物の絵など、個性豊かに描かれています。