三股町立梶山小学校 ホームページ
かんどういっぱい・じまんいっぱい
やるきじゅうぶん・まいにちがたのしい
◆お知らせ(今後の行事)◆
11月26日(火)・・・美化活動(花壇移植)
12月3日(火)・・・みやざき学力調査(4年生)
12月5日(木)・・・持久走大会
12月24日(火)・・・終業式
☟6年生製作 六月灯灯篭の一面
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☟6年生製作 六月灯灯篭の一面
最近、本校のアクセス数が急に伸びていますので、きっと、このブログ「祝 梶山小学校150周年」を読んでいただいている方々も多いのではないかと思います。
本ブログがどのように進んでいくのか心配な方もおられると思いますので、考えていることを少しだけ述べますね。
今は、梶山小学校の150年間の歴史を追っています。現代までたどり着いたら、「現在の梶山小学校」「これからの梶山小学校」にもふれていきたいです。
また、10月4日(水)の全校集会では、子供たちに、校長として「梶山小の150年間」をしっかり伝えたいです。
そして、2月22日(木)の150周年記念式典では、「梶山小の150年間」そして、「梶山小学校の未来や子供たちの未来」についても話をしたいです。
今後も、どうぞ、本ブログ「祝 梶山小学校150周年」にもお付き合いください。よろしくお願いいたします。
昭和のはじめから終戦までの20年間は、日本は、「大きな嵐」に巻き込まれたような状況でした。昭和のはじめは世界的な不景気の波が日本に押し寄せました。そして、梶山地区の製糸工場もどんどんなくなり、農民の方々の暮らしも苦しかったようです。
昭和6年に満州事変が起こり、昭和12年には日華事変、昭和16年には、いよいよ太平洋戦争が始まりました。この戦争は、4年間続いたのでした。
昭和前期の20数年間は、大正11年の校舎をそのまま使っていたそうです。学校名は、昭和6年に「中原尋常小学校」から「梶山尋常小学校」に変わりました。昭和8年(1933年)に創立60周年を迎え、その時に「校旗」と「校歌」ができました。つまり、現在の校歌は90年間、歌い続けられているというわけです。すごいことですよね。
この時代、学習する教科は大きくは変わっていませんが、昭和16年には体操に武道が加わりました。「戦争」に勝つための教育の色合いが出てきた時期でもあります。
さて、急に話を現在に戻しますが、来月10月4日(水)の全校集会で校歌を歌う時間があったら、「この校歌は90年間歌い続けられている校歌である」という事を子供たちに伝えたいと思っています。
1913年(大正2年)、梶山小学校は、65坪3教室の校舎を増築し、8月に新校舎として落成しました。当時は、中原尋常小学校という名称でした。教育環境が整備されたこの時から、梶山小学校では、1年生から6年生までの児童が勉強するようになりました。
ちなみに日本国で、義務教育が6年間になったのは、1907年(明治40)です。
大正時代の教科ですが、修身(今でいう道徳)、国語、算術、図画、唱歌、体操でした。4年生になると理科、5年生になると地理、歴史が加わったそうです。教科の中で最も重要視されたのは、修身です。やはり日本国においては、心の教育を学校中心に実施してきたという歴史があるのかもしれません。
*下に添付しました資料ですが、右側が大正時代の国語の教科書(1年生)、左側が修身の教科書です。字が小さくて読めなくてすみません。
資料は、「梶山小学校記念誌」からスキャンしました。
それにしても、明治の初めに、なぜ短期間で日本は小学校制度を整備することができたのでしょうか。不思議ですよね。その一番の理由としては、「寺子屋」が存在していたことだと言われています。梶山小学校も、過去の記録を見ますと、元々は、「郷校」(寺小屋式の学校)だったようです。
江戸時代幕末にはすでに全国に数万と言われる寺子屋が存在していました。現存する多くの小学校は、寺子屋、または私塾などの民間の教育機関が母体となって誕生しました。中には藩校や武家の教育的な機関から小学校へと整備された例もあったようです。
その後、明治時代に、何度か学校制度は改正されました。1886年(明治19年)には「小学校令」が出されます。この令では、小学校を「尋常小学校」と「高等小学校」の2段階に分けました(各4年制)。「尋常小学校」の4年間は、「保護者は子どもを就学させる義務がある」と規定しました。そこで初めて義務教育がスタートしたというわけです。
本校は、今年度150周年を迎えています。今から150年前というと、(2023年ひく150年)で1873年(明治6年)になります。今回は、その時代の日本の様子や小学校の様子を振り返りたいと思います。
1853年にペリーが来航し、江戸幕府は大きく方針を変更しました。そして1867年に徳川慶喜15代将軍が大政奉還をし、政権を明治天皇に返上しました。翌年1868年から明治時代が始まることになります。明治時代に入り、日本は近代国家としての歩みを大きく進めることになります。鎖国もやめ、世界の文明や文化、生活様式が一気に日本に届くようになりました。
そんな中、日本における正式な初等教育も始まりました。1872年(明治5年)、「学制」が発布されました。学習内容は実学が中心で、いわゆる文明開化政策の一環だったと言われています。1875年(明治8年)には、2万4,303校の小学校が開設され、192万8152人の児童が入学していたとの記録も残っているそうです。
現在、日本全国や宮崎県、三股町の多くの小学校が150周年を迎えています。それは、歴史をさかのぼると「学制」の発布の年、翌年(梶山小学校)、翌々年に設立された小学校が多かったからだと、考えています。