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2024年9月の記事一覧

【校長室】必然

8月31日(土)に本町の五ヶ所三秀台の平和祈念碑前で、「第28回五ヶ所平和祈念祭」が開催された。第二次世界大戦敗戦後の昭和20年8月30日、熊本県の捕虜収容所へ救援物資を空輸中のB29が高千穂町五ヶ所の祖母山に墜落した。このときの搭乗員12名と時を同じくして、終戦直前に同町に墜落死した日本軍戦闘機のパイロット1名を慰霊するために、平成7年に地元有志の平和祈念碑奉賛会が町当局の協力を得て「平和祈念碑」を建立し、毎年平和祈念祭を開いているとのことである。そもそも、この事故の事実を知ったのは、本校で実施した平和学習の講話である。沖縄から高千穂町への学童疎開に関する話の中で、墜落のことにも触れられ、この平和祈念祭と繋がったのである。祈年祭当日は、命を落とした計13名の冥福を祈り、参加者全員による黙祷と五ヶ所在住の小中学生による13回の献鐘が行われ、その後参加者による献花と続いた。その日は台風一過で、雲一つない晴天に恵まれたが、献花が始まると突然強風が吹き始め、それは献花が終わるまで続いた。祈念碑前の机上に捧げられた花は、幾度となく風で飛ばされそうになったが、献花が終わると同時に風は止み、穏やかになった。“私たちの世界に起こる現象は、現実的な影響だけでなく、目に見えない(スピリチュアル)の影響も必ず受けている”と聞いたことがあるが、それだったのであろうか。「神々が天上界から地上に降り立った天孫降臨の地」高千穂に住むと神社への参拝の機会が多く、急に吹く風を感じることがよくあるが、その風はさわやかで気持ちがよい。この時の風も強風ではあるものの、決していやなものではなく、むしろ心地よかった。

さて、献花では、上野にある玄武山正念寺の副住職による読経と法話があった。この正念寺は、昭和19年に沖縄県豊見城村第一国民学校から、学童疎開として上野村に到着した学童75名のおよそ半数(残りの半数は学校)が生活したところとのこと。およそ10分間の法話では、今生かされていることは「当たり前ではない」と話された。当時様々な理由で日本の戦争資料に記されていなかったこのB29墜落の事実。飛行機の残骸が地域の人にたまたま発見されたことから、この事実が明らかになったこと。この発見がなければ命を落とした方々の遺族は、詳細を知ることがなかったこと(祈年祭参加の西部方面総監部在日米陸軍連絡将校のあいさつによる)等、この発見は当たり前ではない。偶然ではなく、必然だったのではということである。1+1は「2」。我々にとってはこれが当たり前であるが、今は1+1は「鬼」(ちなみに2+2は「4」ではなく「カニ」らしいが・・・)とも言うらしい。

多種多様な考え方を受け入れることが大切と言われる共生社会。ほんとうにいい教師は、相手を選ばず、生徒の話に十分耳を傾け、その気持ちに寄り添うことができる人。不登校やいじめにあった生徒、性的少数者等の少数派の視点に立ち、寄り添い守ることができる人。若い教員の「今どきの感覚」をばかにするのではなく、耳を傾けて学校全体の教育活動に取り入れる人等である。日常生活の中で出合う様々な出来事は当たり前ではない。だからこそ、どのようなことでも自分の価値観にとらわれることなく、一つ一つを大切にするという意識が必要だと感じさせられた。

最後に、本校壷田つくしさんによる追悼作文を紹介する。

「あの翼に乗せて」

今日も誰かがどこかでいじめられて、明日もどこかで誰かが泣くでしょう。日本では戦後79年の時が過ぎ、この平和の鐘の音色も天高く響いています。平和というものがふと当たり前にあると錯覚してしまいますが、それは私たち一人一人の優しさや思いやりからつくりあげるもの、隣の友達が困っていたら声をかける勇気から始まるのではないでしょうか。私にはどうしたら戦争がなくなって、哀しむ人がいなくなるかはわかりません。詩人の宮沢賢治は「私の幸せは世界中の皆んなが幸せにならなければ有りません」と言いました。その言葉を借りるなら「私の幸せは隣の友達が笑っていなければ有りません」と言いたいです。世界のみんなが、隣にいる友達を笑顔にできたら、いつか本当の平和がくるのではないでしょうか。79年前の夏、奇しくも目の前に広がる山々に、アメリカと日本の飛行機が墜落して、合わせて13名の尊い命が失われました。亡くなられた若い方々は戦争が終わったらどんなことをしたかったのでしょうか。きっと、まず無事を伝える笑顔をお土産に、家族や恋人の元に帰りたかったのではないでしょうか。

あの夏墜落してしまった翼に、もう一度笑顔を乗せて世界に飛び立ちましょう。

 

追伸 アメリカ合衆国と日本両国の国家及び合唱を聴かせてくださった「大いちょう歌劇団」の皆様、すばらしい歌声をありがとうございました。