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祝 梶山小150周年

ブレイクタイム①(ブログ「祝 梶山小学校150周年」のこれからについて)

 最近、本校のアクセス数が急に伸びていますので、きっと、このブログ「祝 梶山小学校150周年」を読んでいただいている方々も多いのではないかと思います。

 本ブログがどのように進んでいくのか心配な方もおられると思いますので、考えていることを少しだけ述べますね。

 今は、梶山小学校の150年間の歴史を追っています。現代までたどり着いたら、「現在の梶山小学校」「これからの梶山小学校」にもふれていきたいです。

 また、10月4日(水)の全校集会では、子供たちに、校長として「梶山小の150年間」をしっかり伝えたいです。

 そして、2月22日(木)の150周年記念式典では、「梶山小の150年間」そして、「梶山小学校の未来や子供たちの未来」についても話をしたいです。

 今後も、どうぞ、本ブログ「祝 梶山小学校150周年」にもお付き合いください。よろしくお願いいたします。

昭和前期の梶山小学校

 昭和のはじめから終戦までの20年間は、日本は、「大きな嵐」に巻き込まれたような状況でした。昭和のはじめは世界的な不景気の波が日本に押し寄せました。そして、梶山地区の製糸工場もどんどんなくなり、農民の方々の暮らしも苦しかったようです。

 昭和6年に満州事変が起こり、昭和12年には日華事変、昭和16年には、いよいよ太平洋戦争が始まりました。この戦争は、4年間続いたのでした。

 昭和前期の20数年間は、大正11年の校舎をそのまま使っていたそうです。学校名は、昭和6年に「中原尋常小学校」から「梶山尋常小学校」に変わりました。昭和8年(1933年)に創立60周年を迎え、その時に「校旗」と「校歌」ができました。つまり、現在の校歌は90年間、歌い続けられているというわけです。すごいことですよね。

 この時代、学習する教科は大きくは変わっていませんが、昭和16年には体操に武道が加わりました。「戦争」に勝つための教育の色合いが出てきた時期でもあります。

 さて、急に話を現在に戻しますが、来月10月4日(水)の全校集会で校歌を歌う時間があったら、「この校歌は90年間歌い続けられている校歌である」という事を子供たちに伝えたいと思っています。

大正時代の梶山小学校

    1913年(大正2年)、梶山小学校は、65坪3教室の校舎を増築し、8月に新校舎として落成しました。当時は、中原尋常小学校という名称でした。教育環境が整備されたこの時から、梶山小学校では、1年生から6年生までの児童が勉強するようになりました。

 ちなみに日本国で、義務教育が6年間になったのは、1907年(明治40)です。

 大正時代の教科ですが、修身(今でいう道徳)、国語、算術、図画、唱歌、体操でした。4年生になると理科、5年生になると地理、歴史が加わったそうです。教科の中で最も重要視されたのは、修身です。やはり日本国においては、心の教育を学校中心に実施してきたという歴史があるのかもしれません

*下に添付しました資料ですが、右側が大正時代の国語の教科書(1年生)、左側が修身の教科書です。字が小さくて読めなくてすみません。

資料は、「梶山小学校記念誌」からスキャンしました。

小学校制度を短期間で整備できた理由

 それにしても、明治の初めに、なぜ短期間で日本は小学校制度を整備することができたのでしょうか。不思議ですよね。その一番の理由としては、「寺子屋」が存在していたことだと言われています。梶山小学校も、過去の記録を見ますと、元々は、「郷校」(寺小屋式の学校)だったようです。

 江戸時代幕末にはすでに全国に数万と言われる寺子屋が存在していました。現存する多くの小学校は、寺子屋、または私塾などの民間の教育機関が母体となって誕生しました。中には藩校や武家の教育的な機関から小学校へと整備された例もあったようです。

 その後、明治時代に、何度か学校制度は改正されました。1886年(明治19年)には「小学校令」が出されます。この令では、小学校を「尋常小学校」と「高等小学校」の2段階に分けました(各4年制)。「尋常小学校」の4年間は、「保護者は子どもを就学させる義務がある」と規定しました。そこで初めて義務教育がスタートしたというわけです。

150年前の日本や学校の様子

    本校は、今年度150周年を迎えています。今から150年前というと、(2023年ひく150年)で1873年(明治6年)になります。今回は、その時代の日本の様子や小学校の様子を振り返りたいと思います。

 1853年にペリーが来航し、江戸幕府は大きく方針を変更しました。そして1867年に徳川慶喜15代将軍が大政奉還をし、政権を明治天皇に返上しました。翌年1868年から明治時代が始まることになります。明治時代に入り、日本は近代国家としての歩みを大きく進めることになります。鎖国もやめ、世界の文明や文化、生活様式が一気に日本に届くようになりました。

 そんな中、日本における正式な初等教育も始まりました。1872年(明治5年)、「学制」が発布されました。学習内容は実学が中心で、いわゆる文明開化政策の一環だったと言われています。1875年(明治8年)には、2万4,303校の小学校が開設され、192万8152人の児童が入学していたとの記録も残っているそうです。

 現在、日本全国や宮崎県、三股町の多くの小学校が150周年を迎えています。それは、歴史をさかのぼると「学制」の発布の年、翌年(梶山小学校)、翌々年に設立された小学校が多かったからだと、考えています。

梶山小学校が誕生した頃(明治6年:1873年)

 梶山小学校の創立については、梶山小校長室にある学校沿革史資料に以下のように書かれています。(本校児童にも理解してほしいので、文章を分かりやすく表現します。)

「梶山小学校は、明治6年(10月10日)、梶山城下中原に創立された。当初の校長は、榎田秀栄校長であった。梶山、田上、餅原の子供たちを集めて教育が実施された。児童数が増加し、わずか15坪の教室では狭くなったので、明治11年には、教室は36坪になった。」

以上のようにきちんとした記録が残っています。

  また、当時の修業年限は、大体3年だったようです。どのような教科があったかというと、「かなつかい」「ことばのよみかた」「ことばのそらよみ」「さんよう(算数)」「ぎょうぎのさとし(道徳)」などだったようです。

 国語と算数が中心で、特に国語を大事にしていたことが伝わってきます。もちろん、道徳の授業も重要視され、150年前から梶山小学校でも、しっかりと心の教育がなされていました。

 

 

 

はじめに(ブログ「祝 梶山小学校150周年」について)

 8月28日(月)の始業式で、私は、校長として、「10月10日は、梶山小学校の150歳の誕生日です」という話をしました。「150年間も生き続けることは、なかなか難しいですよね。梶山小学校は凄いですよね!」という私の話に、児童は大きくうなづいていました。

 今年度梶山小学校では、PTAを中心として、4月から、節目節目で150周年を祝ってきています。

 私も校長として、150周年のこの年に、何かを発信しなくてはいけないのではないかと考えました。私自身、過去に博物館等に勤務していました。その際は宮崎県の歴史を中心に伝えてきましたが、今回は、梶山小学校の150年間の歴史を中心にして、お伝えしていきたいと考えています。

 場合によっては、扱う内容が日本の歴史や教育という大きなテーマになる場合もあるかと思います。

 つれづれなるままに、不定期でこのHPに掲載していきます。よろしくお願いいたします。