後藤勇吉

 

 

日本の空の先駆者である後藤勇吉は、明治29年(1896年)延岡市生まれ。民間パイロットとして国内第1号の一等操縦士、一等飛行士。延岡高等学校の前身である旧制延岡中学校の第11回卒業生である。

 後藤勇吉は、日本の航空黎明期を代表する民間パイロットで、多くの航空分野における先駆者として知られています。

生い立ちと初期の活動
後藤勇吉は1896年11月12日、宮崎県延岡市南町の裕福な商家に四男として生まれました。幼少期から機械に強い関心を持ち、宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)在学中には蒸気機関付きの精米機や水上自転車を製作するなど、その才能を発揮しました。

1914年に延岡中学校を卒業後、上京して三井物産の自動車部門で働き始めます。そこで飛行士の白戸栄之助と出会い、複葉水上飛行機「巌号」の製作に携わりました。1916年には「巌号」を入手し、故郷の延岡に戻って独学で飛行訓練を行い、直線飛行に成功しています。

飛行士としての活躍
1917年、後藤は帝国飛行協会の操縦生試験に合格し、陸軍での飛行訓練を受けました。1920年には帝国飛行協会主催の飛行大会に出場し、高度飛行と高等飛行で1位を獲得。1921年には日本で最初の一等操縦士・一等飛行士の免許を取得しています。

後藤の功績は多岐にわたります:

1922年:日本初の旅客輸送を実施
1924年:日本初の日本一周飛行を成功
1926年:日本初の海外郵便物空輸を実現
1927年:日本初の生鮮農産物空輸を行う


太平洋横断飛行計画と最期
1927年、リンドバーグの大西洋横断飛行に触発され、帝国飛行協会は太平洋横断無着陸飛行計画を立案しました。後藤は操縦士監督に任命され、霞ヶ浦海軍航空隊で訓練を重ねていました。

しかし、1928年2月29日、訓練飛行中に佐賀県の多良岳山中で墜落事故が発生。後藤勇吉は31歳でその生涯を閉じました。この事故により、太平洋横断飛行計画は中止となりました。

後藤勇吉は、日本の航空史に大きな足跡を残し、その功績を称えて各地に銅像や記念碑が建立されています。彼の先駆的な活動は、日本の航空産業の発展に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。