日本の空の先駆者である後藤勇吉は、明治29年(1896年)延岡市生まれ。民間パイロットとして国内第1号の一等操縦士、一等飛行士。延岡高等学校の前身である旧制延岡中学校の第11回卒業生である。
大正4年(1915年)、少年のころからの夢を叶えるべく飛行家白戸栄之助の助手になり、飛行家としての第一歩を踏み出す。
初飛行は大正5年(1916年)、場所は郷里近くの宮崎県門川町の海岸であった。4年後の大正9年(1920年)には帝国飛行協会主催の懸賞飛行大会競技で高等技術1位、速度競技2位に入るなど、めざましく、また、卓越した飛行技術を発揮している。
大正13年(1924年)、国産飛行機で日本初の日本一周飛行に成功するなど飛行家として高名を馳せたが、昭和3年(1928年)帝国飛行協会が計画した「国産飛行機による太平洋横断無着陸飛行」の5人の飛行士の一人に選ばれ、監督として訓練中に佐賀県の多良岳北山麓に墜落、死亡した。享年33歳。