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心の声

【校長室】非日常に学ぶ

およそ10年ぶりの修学旅行。行き先は九州北部の2泊3日。全てバスで移動という行程である。本県中学生の修学旅行先と言えば、関西方面が定番で、コロナ禍以前は本校もそうだったとか。修学旅行で九州を回るのは、おそらく30年ぶりくらいではないか。バスで移動ともなると「乗車時間が長くて辛いのではないか」と思いがちだが、高千穂町は九州のほぼ中心。熊本市内まで2時間、福岡市内でも3時間あれば十分である。

初日は、心配された雨もなく、曇り空。時折太陽が顔を見せるくらい回復した。キッザニアでの職業体験、太宰府天満宮での参拝と滞りなく、行程を進めた。生徒も満足げな顔をしており、ホッと胸をなでおろした。翌日が長崎自主研修ということで、初日の内に長崎へ移動するも、雲行きが怪しくなり、宿舎に到着した頃は、相当雨が降っていた。荷物を部屋に運ぶとまもなく夕食の時間が近づいてきたので、会場に向かった。学校では問題行動もなく、真面目に生活している生徒たち。そもそも、修学旅行は、何のためにあるのか。どういう学びをするものなのか。目的はいろいろとあるが、私は“修学旅行という非日常の生活の中で、いかに普段どおりの行動ができるか”に限ると思っている。事前指導を徹底する学校がほとんどであろう。旅行期間大切なお子様をお預かりするわけだから、責任重大であるがゆえに、それも無理はないが、非日常では予期せぬことが起こることも十分にあり得る。指導したことで無事に済めば、それはそれでよい。ただ、せっかく修学流行にいくのであれば、さらなる効果を期待したくなるのはぜいたくであろうか。決して問題が発生した方がよいと言っているのではなく、想定外のことが発生したときどう対処するべきかを実践的に学ぶことができれば、それも修学旅行の意義の一つではないか。歴史上の建築物や雄大な自然に触れるとともに、学校という枠を越えた社会を学ぶことも大切であると考える。

初日の夕食が終わるに近づいた頃、生徒はおひつに余っている白米を残してはいけないと必死で食べようとする。食べきれないものを他のグループに回しはじめる。少しずつ騒がしくなる。それでも残してはいけないと、おひつをもって離席が始まる。正義感に燃えた男子生徒は、無理を承知で食べ続け、予想どおりのREVERSE。それを見た2名の生徒が気分不良を訴え、即医務室へ。よかれと思ってはじめた行為が、まさかの負の連鎖へ発展するというアクシデント。ホテルの従業員の方々は、迅速に対応し、養護教諭も生徒の看病にあたる。翌日、何事もなかったかのように行程が進む。

大雨の中、長崎自主研修が進む。トラブル発生時用に班ごとに携帯電話を貸し出し、生徒の動向を本部で見守る。雨のせいか班別研修は、計画よりも早く進行する。服がずぶ濡れになってしまい、“このままでは体調を崩してしまうのではないか”と行程を前倒しする案が浮かび上がる。自主研修を早めに終える班が多い中、計画どおりに行程を進めることができた班が1班だけあった。すばらしい計画である。はずなのに、この日に限っては、まるで自分たちが集合時刻を過ぎてしまっているかのような雰囲気になってしまう。唯一計画どおりに研修を進めていたにもかかわらず・・・。しかも、予定を変更して集合を早めようとした結果、行き先の違う路面電車に乗ってしまう。それでも当初の予定前には到着し、事なきを得た。修学旅行には数多くの人が関わっている。添乗員さんを含む旅行会社。バスの運転手やガイドさんを含むバス会社。各観光地のスタッフや宿泊先のみなさん。食事を作ってくださる方々等々。多くの人が様々な場所で、工夫し、対応をしてくださっていることで修学旅行が成り立ち、思い出に残る楽しい旅行になることを実感してほしい。

事前指導は必要最小限にして、生徒が主体的に行動できる機会を与えること。それはすなわち失敗できる環境を整えること。私の口癖の一つに「失敗は成功への近道」がある。最終日、ホテルでの朝食はバイキング。最もマナーの問われる場面ではあるが、生徒は落ち着き、整然と食事をすることができていた。短期間に、確実に成長できる生徒を私は誇らしく思う。やはり子供たちは無限の可能性を秘めている。今秋実施予定の職場体験学習においてもさらなる成長が期待できる、社会の一員として自分にできることは何かを考え、さらなる成長を遂げることは間違いないであろう。

【校長室】COMPETITION

 第75回西臼杵地区中学校総合体育大会が終了し、団体競技7つの優勝を筆頭に、例年以上のすばらしい結果を残した。本地区の中学校数は5校。都市部のように県大会への出場権を得るまでの試合数はさほど多くはなく、むしろ、比較的楽に感じられるかもしれない。しかし、出場する選手にとって、試合数はあまり関係ないようである。大会当日に最高の結果が出るよう調整をしても、所詮は中学生。上手くいかないことが多い。その不調を補う時間はなく、試合本番中に何らかの手立てを打たねばならないし、それが成功しなければ、「敗北」という結果が待ち受けている。特に、一発決勝の競技において、勝利と敗北の割合は五分と五分。勝ちやすさは負けやすさでもある。本地区の生徒はそれを知っている。だから、前評判で不利な場合は、態度面(声出しや元気さ等)にも全力を注ぐ。技術的に有利なチームは、勝って当たり前というプレッシャーに潰されそうになることもよく目にする。そもそも、中体連の大会は、「学校生活の延長」とされ、決められたルールの中で節度と気遣いのある行動ができるようになるための「教育の場」である。「勝負の世界は厳しいからこそ、心身ともに成長させる」ことができるし、「教育的配慮によって成長を促す」こともできる。中体連の大会はどちらの対応でも生徒にとっては、成長できる最高の機会であることに間違いない。「勝つこと」は、多くの生徒にとって目標の一つで、優勝した生徒や県大会出場を決めた生徒には、心から「おめでとう」と言ってあげたい。本気で練習に打ち込み、厳しい練習を乗り越えて勝つことができた生徒にとっては忘れられない大会の一つになったはずである。個人差はあると思うが、その成果を出すことができた大会は心にしっかりと刻まれるもの。それは応援してくれた保護者も指導者も同じである。そういう私も、およそ10年前まで部活動指導に勤しんでいた。受け持った部が優勝した時のことを思うと言葉で表現することができないくらいの感情がよみがえる。と同時によもやの敗北も苦い思い出として、心に焼き付いている。ある陸上競技大会でも同様の光景を目の当たりにした。当日棄権者が出たため、その種目は予選なしの一発決勝に変更。優勝を期待された選手はまさかの失格。本来ならば標準記録を突破するほどの実力者。予選があれば、そのタイムでも県大会出場は間違いなかったとのこと。自身も周囲も勝利を信じて、これから長い夏が続くだろうと全国まで視野に入れていたレース。強豪校の選手である。その後の心のケアを考えると胸が痛む。これまで、数々のレースで優勝していたかもしれないが、この時は、「敗北」という2文字を結果として与えられた。厳しいが、これが勝負の世界の現実である。「勝利」という最高の喜びの陰には、それと同じ、いやそれ以上の「敗北」という悔しさがある。それを忘れてはいけない。同情するとかではない。そういうことを考えられる生徒になってほしい。そういう気持ちがさらに人としての成長に繋がるものだと私は思う。

 7月6日(土)から始まる県中学校総合体育大会。今年度は分散開催で、本校生徒が出場する競技は、7月26日(金)まで続く。長丁場であるが、可能な限り足を運んで応援したい。本校の生徒が参加する競技が多いということは、校長として誇らしいことであり、とても楽しみである。これからの試合における結果一つ一つが中学校部活動の一区切りとなる。さらに続くか、終わるか。中学生が本気で取り組んできたからこそ得られた様々な思いは、かけがえのないもので、その時の涙の価値は何事にも変えられない財産である。このような経験を大切にしながら、さらに成長してほしいと願う。

【校長室】SHOCK

「再発した細動を、電気ショックを与えて整えますね。準備をしますので、もうしばらく廊下でお待ちください。」術後2度目の検査で、主治医からそう言われた。

アブレーション手術を受けて1か月が過ぎた。前回1週間後の検査ではすでに心房細動が再発していた。アブレーションはカテーテル手術であるものの、長時間、心臓の内側を処置されている以上、そのダメージは小さくなかった。体の表面は赤紫や黄色の内出血の痕、首まわりや両太ももには、発疹が大量発生。そして、経過が良くないとなれば、さすがの私も意気消沈。今回の検査で経過良好になっていますようにというわずかな希望も虚しく、私の心はあっさり撃沈。前回の診察で聞いてはいたが、まさかそれが現実になるとは夢にも思っていなかった“電気ショック”。準備?そんなに大掛かりな処置をするの?と少々ビビってしまった。しばらくして、看護師さんに案内され、回復室へ。そこは小部屋で、大きな器具もなく、大したことはされないだろうとホッと一息ついていたのも束の間、看護師さんが再び登場。どうやら、電気ショックによる治療を行うらしい。心臓に電流によるショックを与えることで心房細胞の震えそのものを止め、脈を普通の状態に戻す治療法のことらしい。それがかなり痛いらしく、全身麻酔をかけるとのこと。

「それでは、術室に行きましょう」と看護師さんにうながされ、処置室まで案内され、ここで看護師さんが交代。たくさん会話をしてくれる気さくな方だった。救急ナースの中のカテーテル担当だとか。会話もさることながら、その手際の良さも手際が良かった。(私にとって)予想以上の大がかりな処置を前に気落ちしていた私を元気づけようと看護師さんが話してくれたことは数知れず。点滴のラインをとるのは日によって調子が違うこと。そういう時は早く家に帰りたいと思うこと。お子さんの試合がキャンプと重なり、駐車できずイライラして、目の前にいた選手に文句を言ったら、そこそこ有名なプロ野球選手だったこと。目を開けたまま麻酔にかかっていると思われる患者の意識を確認する方法等々。処置までの時間が何かと不安だった私の心を癒してくださった。その会話の一部は以下のとおりである。

「麻酔はかかりやすい方ですか?」

「はい。大丈夫です。」

「たまに、目を開けたまま麻酔にかかる人がいますから、正直怖いですよ。」

「そうなんですか。」

「だから、かかる前は目をつぶっていた方がいいと思います。」

「わかりました。そうします。」「もし、目を開けたまま落ちた場合、目を閉じさせるんですか?」

「いいえ、そのままです。だから怖いんです。」

「そろそろ先生を呼びますね。すぐ来られますから。」

「じゃあ麻酔かけます。点滴が痛いかもしれません。」

「大丈夫です。」

「痛くないですか?」

「痛くありません。麻酔が入ってくるのがわかりま・・・。」

(私はここで落ちたらしく、再び目覚めたのは、およそ1時間後)

「大丈夫ですか?」と1回目の声掛けに私は無反応。

「もしもし、大丈夫ですか?」と2回目の呼びかけに、私は開目したようだが、やはり意識はなかったとか。

そして、「心電図取りますね」の声掛けで私は目が覚めたのだが、すでに処置が終わっていることを理解していない私は、

「心電図はいいですけど、まだ麻酔は効いていないので、処置は待ってください。」と懇願。

「もう終わりましたよ。」と看護師さん。

「処置が終わってどれくらい経ったんですか?」と聞くと

「およそ1時間くらいですかね。」と。

あとで妻に聞いた話だが、処置の途中で「バーン」というもの凄く大きな音が鳴ったとか。看護師さんによるとそれが電気ショックを与えたときの音で、医療系のテレビドラマでよく見る光景とのこと。ドクターがアイロンのようなものを心臓の両端に当てるシーンを見られたことがあると思うが、まさにそれらしい。身体も弓なりにのけぞるような反応を示したと聞いた。後遺症なのか分からないが首筋が少々痛いものの、私の心臓そのものはきれいな波形を描いていた。日本の医学にはホントに頭が下がる。来月末に再検査。このまま経過が良好であることを願っている。ちなみに、治療4日後、薬処方のためにかかりつけの病院で受診したときも、私の心臓はきれいな行動を打っていた。およそ7年ぶりの美しい波形を見てとても感動している。このまま完治に向けて、これまでの不規則な生活行動を改め、規則正しい生活リズムの確立に努めたい。

【校長室】RESET

体育大会が無事終了した。

働き方改革を推進するために教育のDX化をはじめ、行事の精選を含む教育課程の抜本的な見直し、職員会議の運営等の工夫・改善等に取り組んできた。昨年5月以降、学校教育は通常のスタイルに戻りつつあるが、注意すべきことは、縮小・中止されてきた様々な教育活動が、働き方改革の推進によるものか、それともコロナ禍で余儀なくされたものなのか、しっかり見極めることである。ややもすると行事の縮小やカットをすることが働き方改革と勘違いし、諸行事の本来の意義や学校の主役である生徒の思い、保護者、地域の考えがないがしろになっている可能性があることも否定できない。特に、各種委員会活動、地域清掃等のボランティア活動、体育大会、文化祭等、異学年集団が協力・協働することで、他者の役に立つ喜びを体得できるような交流は、生徒の自己肯定感や自己有用感の醸成に与える影響が大きく、大変重要である。これらの特別活動における自己肯定感を醸成するには、生徒自身が考え行動し、失敗しながらPDCAサイクルを回すような意思決定をさせること。次に、反論があったり無気力な仲間がいたりする葛藤のなかで合意形成をさせること。そして、自治をさせることと聞く。確かに、教師が全て企画し・運営してしまうと、自分たちで課題を解決したというリアリティはなく、教師や先輩が決めたことを前例踏襲し、成功に導いたところで自己肯定感が高まるはずもない。教育活動上ある程度の指導は必要であるが、指示しすぎると自治感はなくなる。生徒が授業の主役となる協働学習のような、自分の発言が仲間に影響を与えたり、反対に仲間から受けた言葉で自分の価値観が変わったりする授業スタイルも、他者との関係が不可欠な自己有用感の醸成に非常に効果的であると言えよう。

今年度の体育大会は、終日開催か午前中開催か教職員の中で大きく意見が別れた。メリット・デメリットはそれぞれにある。最終的には生徒にとってどうなのか。生徒の健康面への配慮は、プログラムの一つを選択制にする。各学年内での学級対抗制にして学級経営の一助とする。各学級の色を赤系組(赤、桃、燈、紫)、青系組(青、緑、黄緑、水色)に分けのそれぞれの得点を赤団、青団に計上する。体育科への負担を軽減するために、授業の割り当てを工夫し、授業の平準化を図る。生徒主体の活動を重視し、可能な限り生徒による企画・運営に取り組ませる等、主役である生徒を軸にデメリットを一つずつ解決した。それでも、これまでの中心であった教師主体の学校教育の影響は大きく、教師依存の傾向は根強かったため、可能な限りグラウンドに足を運び、観察・指導・助言を行った。ただ、体育科の自分としては久しぶりにワクワクする楽しい時間であったことは言うまでもない。

大会当日は、心配された天候も回復し体育大会には絶好の曇り空。生徒主体の活動が随所に見られ、例年以上の素晴らしい体育大会が実施できたと思う。特に、エール交換は両団とも甲乙付けがたい、本当に見事も出来栄えで、体育主任も感激していた。

生徒には、誰かが敷いたレールをたどるのではなく、人に相談したり相談されたりしながら、最終的には自分で決めた道を歩んでいく力を身に付けてほしい。ただ、こういう教育は成果を得るには時間を要するし、口で言うほど容易なことではないことも十分に分かっている。それでもなお、先生方には、課題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力、他人に働きかけながら周囲を巻き込み、確実に行動する力、相手の意見をていねいに聴き、自分の意見をわかりやすく伝える力を身に付け、生徒の教育力を高めてほしい等、大変なお願いをするのは、生徒の成長と教職員の負担は反比例すると思うからであり、本校の教職員ならできるという期待感がすごく大きいからである。生徒のために長時間労働をすることで教師が疲弊していくのであれば、それは“生徒のため”にはならないが、教師としての資質・向上を図り、教職人生を豊かにすることで、自らの人間性や創造性を高め、子供たちに対して効果的な教育を行うことができるようになることが学校における働き方改革の目的であり、そのことを常に原点としながら改革を進めていきたいと私は考える。

【校長室】UPDATE

バブル全盛期の民間企業は、完全週休二日制、定時帰宅、余暇利用、海外への社員旅行等々、社員にとって働きやすい環境と福利厚生面ではこれらの条件が当たり前の時代。もちろん、民間企業として生き残る大きな条件の一つである利益追求の困難さは、現在ほど大きな社会問題ではなかった記憶がある。教職に就く前の会社員時代、ある会社の社長から「人生常に60点」という言葉を聞いた。「・・・合格は60点以上、自身の成功は合格ラインの最低(60)点におき、残り40点分はさらに向上していくことが大切・・・」つまり、現状に満足するなということであろうか。

現学習指導要領改訂の考え方は、「生きる力」を理念に終わらせず、資質・能力としてしっかりと育てていくよう、「何ができるようになるか」「何を学ぶか」「どのように学ぶか」等、より良い学校教育を実践することが大切であるということである。そして、学校がより良い社会を構築するという考え方を地域社会と共有しながら協働して、予測困難な未来のつくり手となるために必要な資質・能力を生徒一人一人に確実に育んでいくことを目指すものである。様々な課題が山積する学校の役割の重要性を地域社会と共有しながら、校長のリーダーシップのもと、カリキュラム・マネジメントの充実を図ることの必要性を強く感じる。

本校の生徒は、素直で純粋、集団としての場の力を備えている。小さな頃から「高千穂の宝」と言われ、地域の子供たちが地域で育てられている。大人の望む生徒に近づこうといじらしいくらい努力する。したがって、レールを敷く大人の責任はすごく重要である。ただし、そのレールを歩むことは生徒にとって必要なことの一つにしか過ぎず、予測困難な時代を力強く生き抜く力を身に付けさせるには、不十分ではないか。そして、予測困難な未来を予想することは、我々大人にはもはや限界が来ており、予測の正確性は生徒の方がはるかに高いと私は考える。

正解がまるでない現代社会において、昨日までの正解が今日の不正解になることもあり、試行錯誤の連続である。それならば、それを楽しむ方がいいし、それは自己決定と主体的な行動という経験をすることにもなる。そういう意味からも、生徒の意見を大切にし、リスペクトして向き合い、たとえ失敗してもそれを成功の道に導いてあげることがとても大切なこと。失敗はマイナスではなく、むしろ一歩前に進むことと考える。子供たちが失敗しないようにではなく、子供たちが“失敗を経験しながら学ぶ”ということを学ぶことによって、学びの継続性が生まれる。学びは中学校で終わりではない。上級学校、職場、家庭、地域社会等において、これからも学ぶ機会が数多く存在する。大切なことは、その時その時において、自らの成長に必要な課題を自覚し、解決に向けて主体的に考え、時には周囲と協働しながら学ぶことであり、このような「学びに向かう力」の究極的なスタイルに到達すれば、それこそまさに個別最適な学びと言えよう。

世間では、五月病といい、退職者が増加する時期である。この現象は今に始まったことではないが、今では退職の代行サービスが存在している。それだけ需要があるというビジネスチャンスに気付く「発想の転換」は見事である。ただ、学校経営を担う一人として、今後働きやすい職場環境づくりを推進していくことや、一教育者として、経産省の言う「社会人基礎力」を身に付けさせるための手立てを講じることの大切さを強く感じる。これは、「今後の社会の変化を見据え、職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な力」のことで、考え抜く力(シンキング)~疑問をもち、考え抜く力。前に踏み出す力(アクション)~一歩前に踏み出し、失敗しても粘り強く取り組む力。チームで働く力(チームワーク)~多様な人々とともに、目標に向けて協力する力とのことである(「我が国産業における人材力強化に向けた研究会」報告書より)。

「人生に常に60点 学びなくして成長あらず 志(ゆめ)叶うまで挑戦」 これからの社会で働き続けていくためには、学び続けること。今風に言えば「アップデートし続ける」こと。それは、生徒だけに限らず、我々大人も同じであると思う。

令和6年5月17日(金)