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都城市立有水小学校

〒885-1311
宮崎県都城市高城町有水3354番地1
   Tel    0986-59-9306
   Fax    0986-59-9308

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学校の沿革
明治 8年10月13日 創立。庄屋役所2棟を修理し,校舎に充てる。
明治36年11月 3日 西方隅に移転。教室4、裁縫室1新築。4学級編成。
大正 9年 4月 1日 高等科設置。尋常小学校と改称。
昭和 2年 2月 4日 現在位置に移転。
昭和16年 4月 1日 有水国民学校と改称。
昭和22年 4月 1日 高城町立有水小学校と改称。
昭和24年12月 5日 田辺分教場が認可される。
昭和25年 4月15日 田辺分教場で授業開始。1・2年複式、児童数30名。
昭和34年12月10日 給食調理室完成。完全給食開始。
昭和38年 4月 1日 田辺分教場独立。田辺小学校と称する。
昭和38年 9月 1日 校歌制定。
昭和45年 3月 5日 高城町給食センターによる給食開始。
昭和47年 4月 1日 田辺小学校廃校。児童38名は有水小学校に編入。
昭和49年 3月20日 現在の校舎(鉄筋2階建校舎2棟)完成。
昭和49年 4月 1日 高城町立有水幼稚園を併設。2学級。
昭和50年 2月27日 百周年記念事業として玄関前庭園造成。
昭和50年11月 2日 創立百周年記念式典(百周年記念庭園・記念碑完成)
昭和55年10月27日 宮崎県学校発明優秀学校賞受賞。
昭和56年11月 7日 宮崎県学校発明優秀学校賞受賞。
昭和56年11月19日 宮崎県・高城町教育委員会指定研究公開(算数科)。
昭和57年11月 6日 宮崎県学校発明優秀学校賞受賞。
昭和58年 4月20日 第25回創意工夫育成功労学校賞「科学技術長官賞」受賞。
昭和58年11月 5日 宮崎県学校発明優秀学校賞受賞。
昭和59年11月10日 宮崎県学校発明優秀学校賞受賞。
昭和59年 1月31日 北諸県教育事務所研究委嘱校研究公開(算数科)。
昭和60年11月 9日 宮崎県学校発明優秀学校賞受賞。
昭和61年12月15日 有水地区郷土芸能「鉦踊り」を伝承し、発表する。
平成 2年11月 2日 文部省・宮崎県指定道徳教育研究公開(小・中連携)
平成 6年11月18日 有水小学校PTAが日本PTA会長賞受賞。
平成16年 3月31日 制服の廃止。
平成18年 1月 1日 1市4町合併により、都城市立有水小学校と改称。
平成18年 6月11日 見守り隊発足式。
平成20年11月20日 都城市教育委員会、北諸県教育事務所研究協力校研究公開(算数科)
平成24年 2月18日 都城市小学校読書感想文コンクール最優秀校を受賞。











 
有水地区の名所旧跡
○ 有水庚申碑             
  江戸時代の正保(1644)の頃から、元禄13年(1700)の約55年間、高城、山之口、勝岡、高崎、高原、 野尻の六郷を管理する地頭館が有水(有水小学校正門付近)に設けられており、東目六郷地頭館と呼ばれていた。この庚申碑は、有水小学校北150mの所に立てられているが、慶安元年(1648)の碑で、当寺の役職者や今は不明になった寺の僧名も刻まれている。高城町に残る最古の庚申碑である。
○ 田辺かくれ念仏洞
  有水田辺の杉林の中、シラスの洞穴がある。入り口は小さいが、中は畳30枚くらいの広さで、薩摩藩の厳しい取り締まりを逃れ、一向宗(浄土真宗)の信者がご本尊を安置し、日夜その唱名念仏を行ったとされる。
○ 石坂碑
  有水西久保に通称「穂の上、石坂どんの碑」がある。ひび割れた自然石であり、前石坂牛之助、慶安三天八月廿二日の文字がようやく読める。今日、火の神様として近在近郷はもとより、遠隔地からも火災除けのお札を受けに、詣でる人が多い。
○ 下の城址
  有水西久保の西の端れ、今は杉林に被われているが、戦国時代、島津・伊東氏の日向争奪の頃の城址といわれる。応永年間(1400年)島津豊久によって築城され、永治4年伊東氏の所有になり、伊東八城の一つといわれる。今は城址としての痕跡はない。
○ 県指定史跡高城古墳群(22基中2基)
  有水西久保、西留家の裏の台地の畑中に円墳2基ある。2基とも先祖の墓として今も奉斎されている。大和政権の南九州支配の中枢が西都にあり、この中枢区域から東諸県郡国富町を経て,大淀川をさかのぼってきた大和政権の浸透と近畿文化の受容を語る現象と推測されている。このように北諸県地方に高塚古墳群が散在するようになったのは,およそ5世紀後半以降となる。
○ 観音瀬
  観音瀬は大きな岩が林立していて激流となり、その下流は高さ10mぐらいの滝になっていた。第22代 都城領主島津久倫はこの瀬を開削して赤江港に通ずる舟路を開こうとし、家臣藤崎五百治公寛に命じた。 命を受けた公寛は、桂川や吉野川、球磨川などの急流や難所を調査し、肥後の石工や船頭を伴って帰り、 寛政3年(1791)藩主の許可をまって着工。水量の少なくなった冬季の仕事で、激流や岩との闘いだから 並大抵の苦労はなかった。観音瀬左岸に幅一間(1.82m)の舟路の開削工事が竣工したのは、3年後の寛 政6年12月。これによって、都城の竹之下橋から川口の赤江港までの間を川舟が通行するようになり、 都城地方はもとより鹿児島方面の物産も運べるようになった。明治22年(1889)、県営工事で更に右岸に 一間幅の水路開削が始まり、翌年の明治23年に完成し、ますます舟運は盛んになった。大正13年(1924) に、水力発電のための堰堤が造られたため水没したが、昭和37年(1962)下流の新設ダム完工と同時に堰堤が撤去され、昔開削した舟路は再び出現している。
   参考文献:「高城町史」、H元年2月11日、高城町史編集委員会
          機関誌「日和城」、H6~、高城の昔を語る会編集
 
学校の正門前に立っています
正門の前に立っています。歴史ある有水地区が伺われます。
 
有水の鉦踊り
有水地区には鉦踊りが伝承されています。
鉦踊りは時宗の創始者一遍上人が始めた「念仏踊り」の流れに当たり、大鉦1人、中鉦1人、小鉦1名、太鼓9人で踊られます。哀調を帯びた大中小の鉦の音色は、絶妙な旋律を澄み通らせ、矢旗を負った踊り手は、胸につるした太鼓を打ちたたき、輪になって勇壮活発に踊りまくります。
この鉦踊りは有水小学校・中学校の児童生徒に受け継がれ、毎年、運動会で披露されています。

 
有水の史跡
有水小学校から、南東へ4km下ったところに寒天工場跡地があります。
テングサを福山からこの地まで馬で運び、
現地の水や薪を使って寒天を製造し、
製品はまた馬で福山まで運びました。
中国やロシアに密輸出したといわれています。