日誌

学校の様子

いつまでも心に残っていく学校給食~ありがとうございます 

1月24日(水)

 定期的に養護教諭から、「まるのっこだより」(保健室便り)が発行されています。

この便りは、保護者向けに安心メールを通じてデジタル配布していますが、今回の「給食感謝」という内容について作成されていたので、紹介もかねてホームページに掲載しました。

 3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星王冠

 この便りでは、日々の児童の安全と健康を守るための取り組みや連絡事項を紹介しています。

 便りの文面からは、「学校環境衛生検査」という聞き慣れない言葉も読み取れます。

 照度計による教室の明るさも定期的に検査します。

 コロナ禍でよく聞かれるようになった二酸化炭素濃度の検査もしました。「異常なし」とのこと。

 水道水も毎日検査しているんですよ。安心して利用しましょう。そして換気、手洗い、うがいも忘れずに。

 

 さて給食感謝集会

 便りの写真にもありますが、「栄養教諭」の先生を校外からお招きして、学年ごとによるメッセージ授与や感謝の言葉を伝えました。

 学校では、給食が給食コンテナ室に届くと、それを4時間目の終了後に、各学年の給食当番が教室まで運び、配膳、そして給食をとり、片付けをしています。マナーもふくめて指導もします。

 

 しかし、その前後には、材料の仕入れや給食センターでの調理、運搬、食器あらいといった、給食にかかわる方が多く存在していることも忘れてはならないですね。

 

 人が健康に、そして楽しく生きていく上で欠かせない「食」

 本市では公立の小中学校では当たり前「給食」

 しかし、本市の場合、中学卒業後は、食べたくても、時を戻さない限り食することはなかなか難しい「給食」

 大人になると、懐かしく思い出す「給食」のメニュー。

 

 先の割れたスプーンおぼん給食着食缶からお椀についでいた配膳グループ

 一つ一つの光景や経験が人の成長と、味覚や記憶に残る有り難い給食

 「いただきます」&「ごちそうさまでした」

 そして、いつも、ありがとうございます。

  

 

ゆきふった It snowed (郷土・都城市&霧島&丸野)

1月23日(火)~24日(水)にかけて

この日は、気象情報でも、全国的に「寒波」が押し寄せるとの予想が出ていました。

朝から、凍える寒さであったものの、3年生の飛行場跡見学時は、雪がチラッ、ちらっと舞っているだけでした。ただし、本格的な雪とはほど遠い感じでした。

しかし、その夜・・・・

《7時過ぎの西都城駅周辺の様子》

 

ご覧のように、道に積もるほどではありませんでしたが、「雪だっ」と感じる降り方でした。南国ならではですね。

 

次の日の早朝(6時半頃)には、何もなかったかのように、東の空には太陽が昇ろうとしていました。

少々見えづらいですが、丸野小の近くの消防団横から、東の空から北西の霧島山の様子を撮影しました。

まだ朝が早く、東には太陽の光が、そして、霧島の西側にはも輝いています。

 

あらっ雪はいずこに?!

 

太陽が昇ってくると・・・

見えてきました、雪が。

雄大な霧島山にはうっすらと雪小雨積もっていました。

令和6年初の雪化粧した霧島でした。

子どもたちは、こんな景色を眺めながら、登校しています。

これもまた「丸野のよさ」の一つです。

 

都城北飛行場(野々美谷町)って知っていますか?(3年生)

1月23日(火)

丸野小学校校区には「都城北飛行場跡」があります。

飛行場跡とは、空を飛ぶ飛行機が離着陸していた場所のこと ?!「えっ、そんな場所ないよ・・・」衝撃・ガーン

 

 

丸野小学校の校区内には、そんな場所は、「現在」は、見当たりません驚く・ビックリ

もちろん「跡(あと)」ということなので、今はないのかな・・?

見学を始めた3年生の児童も?!がいっぱい頭の中を巡っていたと思います。

3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星

都城北飛行場は、昭和19年~20年(今から約80年前)にかけて、旧日本陸軍が軍用の飛行場としてつくりました。昭和19年~20年は、まさに、日本は外国との戦争のまっただ中。

 都城北飛行場建設のために、本地域住民はもちろん高原町や小林からも動員され、耕地作業を行ったとのこと。

 そして肝心の滑走路は、東北東より西南方にも幅160㍍、延長1600㍍の大きさでした。

 さらに、の攻撃から、飛行機をかくす場所も林の中につくられていました。

 そして、都城北飛行場は、「特別攻撃隊(特攻隊)」のための飛行場でした。

3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星3ツ星

 昭和20(1945)年7月に、岡山から都城北飛行場にやってきたある特攻隊員の回想録によると、

 その方は、昭和20(1945)年の2月特攻隊員になられたそうです。その後、5月に埼玉県の熊谷飛行場において、飛行機(機体は暗緑色にぬられ、後ろの座席にはドラム缶が搭載されていた改造機)が与えられ、その後、その飛行機で岡山に移ったとのこと。

 岡山では、同じ飛行機で、海上での実戦訓練(超低空による水平飛行や漁船を敵と見立てた体当たりの訓練)を行い、その後、都城北飛行場にやってきたそうです。

 都城北飛行場では、特攻隊員たちは「三角兵舎」に寝泊まりをしていたとのこと。(現在は鹿児島県の知覧に同じような兵舎が復元されています。)

 8月になると、敵の飛行機が都城北飛行場の上空をよく飛ぶようになり、飛行訓練もなかなか思うようにできなくなったとのこと。来る日も来る日も「三角兵舎」で過ごし、重苦しい空気と、間近に迫る死への恐怖も感じながら、遺書を何度も読み返したり、身の回りの私物の整理をするだけの日が続いたそうです。

 こんな身近な場所に、今から約80年前に、命の大切さを強く感じながら、それでも特攻隊としての強い責任を負い、毎日過ごしていた人たちがいたことを忘れてはなりませんね。

 

かけがえのない命は尊く、命の大切さは人としての生き方そのもの・・・ですから。

3年生のみなさんは、この活動を通して必ず何か「感じ、考え」てくれたことだと思います。

みなさんは、先人たちに、どんな言葉をかけますか?

とどけ丸野愛~能登地震で被害にあわれた皆様に(募金活動)

1月22日~2月2日の間

      右能登(石川県などの被災地)

 丸野愛を何とか能登へとどけたい・・・3ツ星

という思いが募り、本校の運営委員会(児童の委員会活動)が中心となり、1月22日(月)の朝から、各クラスを巡り、募金活動を行っています。

 北陸では、未だ災害の復興半ば。マンパワーは報道のとおり、全国から救援の手が差し伸べられるようになりました。

 しかし、地震発生から4週間たった今も、「道路の寸断、大型車進入阻む(宮崎日日新聞1/291面)」との見出しも出ています。

 遠く離れた私たち、しかも「小学校という組織・集団」にできることは、生活につなげてほしいという願いもこめて「お金」を集めることと考えました。

 毎朝の放送(午前8時)のあと、委員会の児童が募金を集めに回ります。

「少しでも役立たせてほしい」という善意の気持ち。その気持ちが毎日のように貯まっていっています。

 早く復興を、少しでも役に立ってほしい

とどけ この思い・・・。

募金活動に御協力いただいている皆様、心より感謝申しあげます。2月2日(金)までの実施予定です。

 

志和池見守りの日の日に・・・保護者の皆様ありがとうございます。

1月17日(水)

 

この日は第3水曜日、そうです。「志和池見守りの日」でした。

ご存知のとおり、地域の民生委員の方や公民館の方々が児童の登下校を見守っていただける日。

この日の朝も、ふだん通り、正門にはあいさつもかねて児童の登校を見守っていただきました。感謝、感謝です。

 その後、この日は2年生は、「みやこのじょう市街地探検」(前ホームページ参照)に出発していました。

 

 そして報道。市教育委員会からも連絡があり、

 急きょ、本校全職員で対応を共通理解し、保護者へは12時にメールを発信しました。

 緊急の対応にもかかわらず、保護者の皆様はメールを素早く確認していただきました。

 しかも、13時15分~14時15分という限られた時間内での引き渡しにもかかわらず、14時30分には無事に完了することができました。

 保護者の皆様の、緊急時の即応力、危機管理力、情報の確認 等・・全てが素晴らしいものでした。

 保護者の皆様だけでなく、地域においては、同時間帯に、見守りの方々の協力もあったという連絡も受けました。

 さすが、丸野小学校の保護者の皆様です。本当に本当に有り難いです。

 このようなことは、めったにはないことですが、本当に有り難うございました。

 感謝の気持ちでいっぱいです。